結局、救われた人って......『ザ・フラッシュ』初見感想

 

 主演のエズラ・ミラーの犯罪事件の件については色々と受け入れられないところもありましたが、結局『ザ・フラッシュ』初日朝のIMAX上映に行ってきました。

流石に朝イチの回、気合いの入った客が多かったです

 

 十分楽しめた映画でしたが、モヤモヤするところが何点かありました。ネタバレ有りです。

 

 『ドライブ・マイ・カー』『ブラック・パンサー/ワカンダ・フォーエバー』『ミーガン』と、最近は何かと“喪の作業”の映画が話題になりやすいですが、この映画もそのうちの一本です。

 そして、もうひとつこの映画を語る上で欠かせない視点が、“ADHDの物語”であるということです(またその話かよ!という方は申し訳ありません)。

 

 

 

ADHDのヒーロー

 本作『ザ・フラッシュ』の主人公:バリー・アレンは設定こそ明言されていないものの、明らかにADHDの特性があり、恐らく自閉スペクトラムも併発していると思われます(DCEUの前作も同様)。これだけの規模の作品でこれほど分かりやすいのも珍しいです。

 本作以外でも映画で「高速で動ける超能力を持つ」タイプのキャラクターが登場すると、

「周囲の人々の間で流れている時間がとてつもなくゆっくりに感じられる」

「議論や考察をするより早く、衝動的にさっさと1人で行動してしまう」

「集中力がなく、あちこちに注意が散らばって一貫性に欠ける」

「うっかりしたミスが多い(ex.超速で走れるのに遅刻する)

「早口で一方的に話し、周りの人と会話のリズムを合わせることが出来ない」

など、“ADHD的”に描写されやすい傾向があります。本作のバリーの場合、「ずっと眠い」なんて設定もありましたね。発達に偏りのある人の中には、睡眠周期が多くの人と異なり、どれだけ夜寝ても昼に眠くなってしまうタイプの人も居ます。

 

 スーパーマンのような高潔さもなく、バットマンほどの重苦しさもなく、自信がなく傷つきやすい、そのくせノリが軽い、等身大の若者であることこそがバリー・アレンの魅力です。実際、この映画の見どころの大部分が、オタクっぽくてせわしないバリーを2バージョンも演じ分けたエズラ・ミラーの実力によって占められていると思います。

 

ADHD的編集

 『ザ・フラッシュ』は『エブエブ』や『スコット・ピルグリムvs邪悪な元カレ軍団』、『歌うつぐみがおりました』などの映画と比べれば遥かに大予算のブロックバスター大作であるからか、突拍子もない出来事が休みなしに次々と起こる「ADHD的編集」こそあまり見られませんでした。が、これまでのスーパーヒーロー映画と比べれば遥かにテンポが早く、会話がダレないどころか、むしろ逆に話を聞かずにサクサク進め過ぎて大変なことに......といった、せわしない映画になっていたとは思います。もっと早くても良かったのになぁ、とは思いました。

 

ADHD的な大回りの構成

 映画の物語を全体的に振り返っても、“喪の作業”という個人的な小さなスケールの物語を、“マルチバース”や“タイムスリップ”といった、スケールの大きいSF的な要素を経由することで「回り道」をして語る構成の点からしても、同じくADHD映画の決定版である『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と似た構造をしていると思います。

 

 『エブエブ』ではそんな、ごちゃ混ぜでカオスな作劇がポジティヴに働いていましたが、『ザ・フラッシュ』にモヤモヤしたのは、まずは“カオスさ”がファンサービスの域を超えていなかったこと。もう一つは全体的に振り返ったとき、マイケル・キートンバットマンが住む“別の世界”のお話が、結果的にバリーの頭の中で自己完結的に閉じてしまったような印象に思えてしまった点です。

 

 この映画は「避けられない悲劇=母の死」を「滅亡する運命の別世界」と重ねることで、“元の世界”のバリーの喪の作業を進めていく構成になっています。

 要は、“ADHD的な作劇”の文脈でいえば、“別の世界”はバリーの個人的な葛藤の「回り道」「寄り道」でしかないのです。

 ファンのないものねだりと言われればそこまでなのですが、どうせ寄り道するならもっと寄り道しまくって欲しかった、というのが正直なところです。本作での“寄り道”はマイケル・キートンバットマンが暮らす“別世界”一つだけです。色んな歴史改変がされた別世界を一気に駆け抜けていくような映画になると勝手に予想していました。マイケル・キートン以外にも色んなのが出てくると思っていた、というより、『エブエブ』の石バースみたいな、我々ファンでは予想がつかないようなアイディアをバンバンぶつけてくるだろうと身構えていたので、意外とあっさりしていたなァ、というのが正直なところです。

 

キャラクターの扱い

 ゾッド役のマイケル・シャノンがインタビューで「この映画はキャラクターの深い探究をさせてくれなかった」と不満を漏らしていましたが、“別世界”パートのゾッドとスーパーガールといったキャラクターたちは何だか「置かれただけ」のような印象がして、少なくともマイケル・シャノンほどの俳優に頼む仕事としてはいささか失礼だな、とも思いましたし、最高にカッケェ新人のスーパーガールも、30年ぶりに帰ってきてくれたマイケル・キートンバットマンも、結局は“葛藤に必要だった回り道”として矮小化されているような気がしてしまいます。“別世界”パートで、バリーに何かしらの形で変化を促すこと、背中を押すようなことを言ってくれたのは、17歳の自分自身を除けばマイケル・キートンバットマンだけです。

https://theriver.jp/the-flash-multiverse-shannon/

 

イムループ・アドベンチャー

 日本で本作は「人類滅亡の歴史を変える超速タイムループ・アドベンチャー!」というコピーで宣伝されています。

 タイムループの面白さといえば、同じシチュエーションを何回も見せる上で、次はどうしたら上手くいくか、作戦会議をしながら違う選択を取ってトライ&エラーを積み重ねていくところにあると思います。ホラーコメディ映画『ハッピー・デス・デイ』なんかをご覧になったことのある方なら、想像しやすいかと思います。


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 しかし、本作の肝心のタイムループ・シーンは、一回のリピート分しか描写されません。一回失敗して巻き戻りますが、バリー同士上手く作戦会議が出来ずに、片方が突っ走ってしまい闇落ちしてしまいます。次はどこを改善してタイムリープしたのかについてはよく分かりません。がむしゃらに頑張ったみたいですが、どう頑張ったのかは省略されてしまっています。もしくは、もっと前の時間に戻ってみるとか(赤子クラークがゾッドに拉致られるのを阻止するとか)、タイムループ地点を大きく変えて、違うシチュエーションでのリピートを見せるようなことも、劇中ではしていたのかもしれませんが、画面で見せてはくれませんでした。

 

マルチバースの使い方問題

 クライマックスでマルチバースの扉が大きく開き、サプライズがいくつか並べられますが、何となく予想は付きましたし、ファンサービス的なカメオの文脈以上のマルチバースの拡がりが感じられなかったのも何だか残念です。もっとこう、妄想を掻き立てるような無茶苦茶な別世界を見せてくれても良かったのに。

 結局のところ“別世界”の混乱は“別世界”のバリーが都合よくオトシマエを付け、全体的に見れば「過去は辛いけれど、振り返ったって変わらない」という普遍的なメッセージに落ち着くのですが、この場合は「個人的な葛藤のために滅びゆく世界を、ある意味で“消費”するお話」だとは言えないでしょうか?実際あの世界は滅んじゃってるワケだし。それも、マイケル・キートンが30年ぶりにカムバックしたうえ、400人の中から最高のスーパーガール役を見つけ出したことで実現した、ファンにとっても思い入れのある贅沢な世界を、です。あまりに勿体無くないですか......?2人とも呆気なく死んじゃうし......。

 

 

 しかしながらそれ以上に、最もモヤモヤする点は、それらこそが本作を“ADHDの物語”にしている最大の所以である点です。構成上そうなってしまうのは仕方がないのですから。

 元々フラッシュ、というか近年のスーパーヒーロージャンル全体としてですが、個人的なスケールの話を大袈裟なSFファンタジー・スペクタクルで語っていくことに豊かさがあると思います。

 

 『ジャスティス・リーグザック・スナイダー・カット』で、バリーが初めてスピード・フォースを使って過去に巻き戻るシーンを見たときは非常に胸を打たれました。「過去に囚われずに今を生きろ」という父親からのメッセージを胸に、SF的なマジックで「未来を生き、過去をも飛び越える」疾走シーンは、間違いなくあの映画のベスト・モーメントでした。

 “スナイダー・カット”は色々とダレるところもありますが、お馴染みのベテランヒーローではなく、障害を持つ2人の若者(ADHDのバリー/身体を欠損したビクター)が世界を救う闘いの決定打となるのが最高にアツい映画でしたね。2人の若者が自らを肯定するまでの成長ドラマにもなっていました。

 

 本作では、超光速で走れることに不思議と爽快感を覚えません。『X-MEN』シリーズのクイックシルバーみたいな、ケレン味あふれる光速移動シーンが少なかったように思えるのです(赤ちゃん救出シーンが一番楽しかった)。今回の映画で光速で走ることで起きたこと、それは“別世界”が滅ぶこと、そして母が戻ってこないことを再確認することです。その事実によって傷付いた心の傷を「世界の崩壊を防げないこともある」という罪悪感によってさらに拡げるような描き方になっています。

 そういえば、“元の世界”のバリーは、ゾッドによって滅びた“別世界”に対して、どんな感情を抱いているのでしょうか?あの別世界って、ゾッドに滅ぼされた状態で存在し続けているんですよね?“元の世界”に帰ったバリーは父親の無実を証明し、アイリスといい感じになったり幸福を手にしますが、彼の心の傷は回復しません。

 

 心に負った傷を無理に癒すのではなく、傷と共に生きていく、それこそが我々を作っているのだ、というメッセージは、“元の世界”のベン・アフレック演じるブルースも、“別の世界”のマイケル・キートン演じるブルースも、2人ともバリーに伝えていました。それこそがこの映画の本質的なメッセージであるとも思えるのですが、なんだかそれにしてはマイケル・キートンの“別世界”の住民たちが気の毒に思えて仕方ありません。

 

 結局、一番幸せになったのって、最後に出てきたジョージ・クルーニー演じるブルースじゃないですかね?クルーニーが主演した『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』は、ファンの間では“バットマン映画史上最悪の駄作”と呼ばれてきていましたし、ギリシャ彫刻モチーフの乳首が付いたバット・スーツは今でもネタとして使いまわされています。 

 ジョージ・クルーニー自身も度々インタビューで、「同作に出演したことを後悔している」ことを仄めかしていました。今回のカメオで、ある種自ら”笑い話”に消化できたことで、なんらかの救いになってたら、いいと思いますが......あの最後に出てきたクルーニー版ブルースは、今でも“乳首スーツ”を着て闘っているんでしょうか......?

 

 

 別にこの映画を見て「ADHDは自分の幸福のためなら世界を一個滅ぼすぐらい何とも思わないクソどもだと思われてるんだ!」なんてことは思っていません。本作は前評判も良かったですし、ADHDの物語になることも分かりきっていたので、どうせ脱線するなら盛大に脱線しまくって色んな別世界を何個も何個も渡り歩く冒険ファンタジーになる、と思っていたし(これに関しては本当に私のないものねだりです)。マイケル・キートンの“別世界”が滅亡することを目の当たりにすることで、世界を救えないこともあること(=死んだ母を過去から救うことは出来ないこと)に折り合いをつけるヒーロー映画というのは新しくはあるものの、ヒーロー映画としては人命救助というミッションには失敗しているワケですから、映画全体の疾走感とは裏腹に、モヤモヤは残ります。

 実生活では周りが遅過ぎてイライラしたり、バットマンの雑用を任されたり、不便なこともあるけれど、「誰よりも早く走れる」ことがもっと肯定的なニュアンスで描かれる映画が、私は見たかったのかもしれないです。ADHD当事者として、”スナイダー・カット”のバリーに感銘を受けたのはそういったところなのかもしれませんね。

 

 

 とはいえ、クライマックスのスーパーマーケットのシーンは素晴らしくエモーショナルでした。サングラスの奥から隠しきれない涙が溢れるシーンは本当に良かったですね。あそこでエズラ・ミラーの表情をこれ見よがしに見せるのではなく、サングラスを着用させる判断を下した監督か衣装係かに最大の拍手を送りたいです。

 

 

 あ、ついでに、エズラ・ミラーが全身タイツを着ていると顔やリアクションの表情が似ているのもあって、ちょっとPink Guyっぽく見えるのが一番笑えました。

 「メンタルヘルスの治療は専門の機関でどうぞ」

 「ジャスティス・リーグはメンタルのケアは苦手なんだ」

って、あなたが言ったら笑えないっすよ......

 

 

【映画『ザ・フラッシュ』予告】


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