結局、救われた人って......『ザ・フラッシュ』初見感想

 

 主演のエズラ・ミラーの犯罪事件の件については色々と受け入れられないところもありましたが、結局『ザ・フラッシュ』初日朝のIMAX上映に行ってきました。

流石に朝イチの回、気合いの入った客が多かったです

 

 十分楽しめた映画でしたが、モヤモヤするところが何点かありました。ネタバレ有りです。

 

 『ドライブ・マイ・カー』『ブラック・パンサー/ワカンダ・フォーエバー』『ミーガン』と、最近は何かと“喪の作業”の映画が話題になりやすいですが、この映画もそのうちの一本です。

 そして、もうひとつこの映画を語る上で欠かせない視点が、“ADHDの物語”であるということです(またその話かよ!という方は申し訳ありません)。

 

 

 

ADHDのヒーロー

 本作『ザ・フラッシュ』の主人公:バリー・アレンは設定こそ明言されていないものの、明らかにADHDの特性があり、恐らく自閉スペクトラムも併発していると思われます(DCEUの前作も同様)。これだけの規模の作品でこれほど分かりやすいのも珍しいです。

 本作以外でも映画で「高速で動ける超能力を持つ」タイプのキャラクターが登場すると、

「周囲の人々の間で流れている時間がとてつもなくゆっくりに感じられる」

「議論や考察をするより早く、衝動的にさっさと1人で行動してしまう」

「集中力がなく、あちこちに注意が散らばって一貫性に欠ける」

「うっかりしたミスが多い(ex.超速で走れるのに遅刻する)

「早口で一方的に話し、周りの人と会話のリズムを合わせることが出来ない」

など、“ADHD的”に描写されやすい傾向があります。本作のバリーの場合、「ずっと眠い」なんて設定もありましたね。発達に偏りのある人の中には、睡眠周期が多くの人と異なり、どれだけ夜寝ても昼に眠くなってしまうタイプの人も居ます。

 

 スーパーマンのような高潔さもなく、バットマンほどの重苦しさもなく、自信がなく傷つきやすい、そのくせノリが軽い、等身大の若者であることこそがバリー・アレンの魅力です。実際、この映画の見どころの大部分が、オタクっぽくてせわしないバリーを2バージョンも演じ分けたエズラ・ミラーの実力によって占められていると思います。

 

ADHD的編集

 『ザ・フラッシュ』は『エブエブ』や『スコット・ピルグリムvs邪悪な元カレ軍団』、『歌うつぐみがおりました』などの映画と比べれば遥かに大予算のブロックバスター大作であるからか、突拍子もない出来事が休みなしに次々と起こる「ADHD的編集」こそあまり見られませんでした。が、これまでのスーパーヒーロー映画と比べれば遥かにテンポが早く、会話がダレないどころか、むしろ逆に話を聞かずにサクサク進め過ぎて大変なことに......といった、せわしない映画になっていたとは思います。もっと早くても良かったのになぁ、とは思いました。

 

ADHD的な大回りの構成

 映画の物語を全体的に振り返っても、“喪の作業”という個人的な小さなスケールの物語を、“マルチバース”や“タイムスリップ”といった、スケールの大きいSF的な要素を経由することで「回り道」をして語る構成の点からしても、同じくADHD映画の決定版である『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と似た構造をしていると思います。

 

 『エブエブ』ではそんな、ごちゃ混ぜでカオスな作劇がポジティヴに働いていましたが、『ザ・フラッシュ』にモヤモヤしたのは、まずは“カオスさ”がファンサービスの域を超えていなかったこと。もう一つは全体的に振り返ったとき、マイケル・キートンバットマンが住む“別の世界”のお話が、結果的にバリーの頭の中で自己完結的に閉じてしまったような印象に思えてしまった点です。

 

 この映画は「避けられない悲劇=母の死」を「滅亡する運命の別世界」と重ねることで、“元の世界”のバリーの喪の作業を進めていく構成になっています。

 要は、“ADHD的な作劇”の文脈でいえば、“別の世界”はバリーの個人的な葛藤の「回り道」「寄り道」でしかないのです。

 ファンのないものねだりと言われればそこまでなのですが、どうせ寄り道するならもっと寄り道しまくって欲しかった、というのが正直なところです。本作での“寄り道”はマイケル・キートンバットマンが暮らす“別世界”一つだけです。色んな歴史改変がされた別世界を一気に駆け抜けていくような映画になると勝手に予想していました。マイケル・キートン以外にも色んなのが出てくると思っていた、というより、『エブエブ』の石バースみたいな、我々ファンでは予想がつかないようなアイディアをバンバンぶつけてくるだろうと身構えていたので、意外とあっさりしていたなァ、というのが正直なところです。

 

キャラクターの扱い

 ゾッド役のマイケル・シャノンがインタビューで「この映画はキャラクターの深い探究をさせてくれなかった」と不満を漏らしていましたが、“別世界”パートのゾッドとスーパーガールといったキャラクターたちは何だか「置かれただけ」のような印象がして、少なくともマイケル・シャノンほどの俳優に頼む仕事としてはいささか失礼だな、とも思いましたし、最高にカッケェ新人のスーパーガールも、30年ぶりに帰ってきてくれたマイケル・キートンバットマンも、結局は“葛藤に必要だった回り道”として矮小化されているような気がしてしまいます。“別世界”パートで、バリーに何かしらの形で変化を促すこと、背中を押すようなことを言ってくれたのは、17歳の自分自身を除けばマイケル・キートンバットマンだけです。

https://theriver.jp/the-flash-multiverse-shannon/

 

イムループ・アドベンチャー

 日本で本作は「人類滅亡の歴史を変える超速タイムループ・アドベンチャー!」というコピーで宣伝されています。

 タイムループの面白さといえば、同じシチュエーションを何回も見せる上で、次はどうしたら上手くいくか、作戦会議をしながら違う選択を取ってトライ&エラーを積み重ねていくところにあると思います。ホラーコメディ映画『ハッピー・デス・デイ』なんかをご覧になったことのある方なら、想像しやすいかと思います。


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 しかし、本作の肝心のタイムループ・シーンは、一回のリピート分しか描写されません。一回失敗して巻き戻りますが、バリー同士上手く作戦会議が出来ずに、片方が突っ走ってしまい闇落ちしてしまいます。次はどこを改善してタイムリープしたのかについてはよく分かりません。がむしゃらに頑張ったみたいですが、どう頑張ったのかは省略されてしまっています。もしくは、もっと前の時間に戻ってみるとか(赤子クラークがゾッドに拉致られるのを阻止するとか)、タイムループ地点を大きく変えて、違うシチュエーションでのリピートを見せるようなことも、劇中ではしていたのかもしれませんが、画面で見せてはくれませんでした。

 

マルチバースの使い方問題

 クライマックスでマルチバースの扉が大きく開き、サプライズがいくつか並べられますが、何となく予想は付きましたし、ファンサービス的なカメオの文脈以上のマルチバースの拡がりが感じられなかったのも何だか残念です。もっとこう、妄想を掻き立てるような無茶苦茶な別世界を見せてくれても良かったのに。

 結局のところ“別世界”の混乱は“別世界”のバリーが都合よくオトシマエを付け、全体的に見れば「過去は辛いけれど、振り返ったって変わらない」という普遍的なメッセージに落ち着くのですが、この場合は「個人的な葛藤のために滅びゆく世界を、ある意味で“消費”するお話」だとは言えないでしょうか?実際あの世界は滅んじゃってるワケだし。それも、マイケル・キートンが30年ぶりにカムバックしたうえ、400人の中から最高のスーパーガール役を見つけ出したことで実現した、ファンにとっても思い入れのある贅沢な世界を、です。あまりに勿体無くないですか......?2人とも呆気なく死んじゃうし......。

 

 

 しかしながらそれ以上に、最もモヤモヤする点は、それらこそが本作を“ADHDの物語”にしている最大の所以である点です。構成上そうなってしまうのは仕方がないのですから。

 元々フラッシュ、というか近年のスーパーヒーロージャンル全体としてですが、個人的なスケールの話を大袈裟なSFファンタジー・スペクタクルで語っていくことに豊かさがあると思います。

 

 『ジャスティス・リーグザック・スナイダー・カット』で、バリーが初めてスピード・フォースを使って過去に巻き戻るシーンを見たときは非常に胸を打たれました。「過去に囚われずに今を生きろ」という父親からのメッセージを胸に、SF的なマジックで「未来を生き、過去をも飛び越える」疾走シーンは、間違いなくあの映画のベスト・モーメントでした。

 “スナイダー・カット”は色々とダレるところもありますが、お馴染みのベテランヒーローではなく、障害を持つ2人の若者(ADHDのバリー/身体を欠損したビクター)が世界を救う闘いの決定打となるのが最高にアツい映画でしたね。2人の若者が自らを肯定するまでの成長ドラマにもなっていました。

 

 本作では、超光速で走れることに不思議と爽快感を覚えません。『X-MEN』シリーズのクイックシルバーみたいな、ケレン味あふれる光速移動シーンが少なかったように思えるのです(赤ちゃん救出シーンが一番楽しかった)。今回の映画で光速で走ることで起きたこと、それは“別世界”が滅ぶこと、そして母が戻ってこないことを再確認することです。その事実によって傷付いた心の傷を「世界の崩壊を防げないこともある」という罪悪感によってさらに拡げるような描き方になっています。

 そういえば、“元の世界”のバリーは、ゾッドによって滅びた“別世界”に対して、どんな感情を抱いているのでしょうか?あの別世界って、ゾッドに滅ぼされた状態で存在し続けているんですよね?“元の世界”に帰ったバリーは父親の無実を証明し、アイリスといい感じになったり幸福を手にしますが、彼の心の傷は回復しません。

 

 心に負った傷を無理に癒すのではなく、傷と共に生きていく、それこそが我々を作っているのだ、というメッセージは、“元の世界”のベン・アフレック演じるブルースも、“別の世界”のマイケル・キートン演じるブルースも、2人ともバリーに伝えていました。それこそがこの映画の本質的なメッセージであるとも思えるのですが、なんだかそれにしてはマイケル・キートンの“別世界”の住民たちが気の毒に思えて仕方ありません。

 

 結局、一番幸せになったのって、最後に出てきたジョージ・クルーニー演じるブルースじゃないですかね?クルーニーが主演した『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』は、ファンの間では“バットマン映画史上最悪の駄作”と呼ばれてきていましたし、ギリシャ彫刻モチーフの乳首が付いたバット・スーツは今でもネタとして使いまわされています。 

 ジョージ・クルーニー自身も度々インタビューで、「同作に出演したことを後悔している」ことを仄めかしていました。今回のカメオで、ある種自ら”笑い話”に消化できたことで、なんらかの救いになってたら、いいと思いますが......あの最後に出てきたクルーニー版ブルースは、今でも“乳首スーツ”を着て闘っているんでしょうか......?

 

 

 別にこの映画を見て「ADHDは自分の幸福のためなら世界を一個滅ぼすぐらい何とも思わないクソどもだと思われてるんだ!」なんてことは思っていません。本作は前評判も良かったですし、ADHDの物語になることも分かりきっていたので、どうせ脱線するなら盛大に脱線しまくって色んな別世界を何個も何個も渡り歩く冒険ファンタジーになる、と思っていたし(これに関しては本当に私のないものねだりです)。マイケル・キートンの“別世界”が滅亡することを目の当たりにすることで、世界を救えないこともあること(=死んだ母を過去から救うことは出来ないこと)に折り合いをつけるヒーロー映画というのは新しくはあるものの、ヒーロー映画としては人命救助というミッションには失敗しているワケですから、映画全体の疾走感とは裏腹に、モヤモヤは残ります。

 実生活では周りが遅過ぎてイライラしたり、バットマンの雑用を任されたり、不便なこともあるけれど、「誰よりも早く走れる」ことがもっと肯定的なニュアンスで描かれる映画が、私は見たかったのかもしれないです。ADHD当事者として、”スナイダー・カット”のバリーに感銘を受けたのはそういったところなのかもしれませんね。

 

 

 とはいえ、クライマックスのスーパーマーケットのシーンは素晴らしくエモーショナルでした。サングラスの奥から隠しきれない涙が溢れるシーンは本当に良かったですね。あそこでエズラ・ミラーの表情をこれ見よがしに見せるのではなく、サングラスを着用させる判断を下した監督か衣装係かに最大の拍手を送りたいです。

 

 

 あ、ついでに、エズラ・ミラーが全身タイツを着ていると顔やリアクションの表情が似ているのもあって、ちょっとPink Guyっぽく見えるのが一番笑えました。

 「メンタルヘルスの治療は専門の機関でどうぞ」

 「ジャスティス・リーグはメンタルのケアは苦手なんだ」

って、あなたが言ったら笑えないっすよ......

 

 

【映画『ザ・フラッシュ』予告】


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『スパイダーマンATSV』公開前夜 発達障害と、前作の思い出。

 映画『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』の公開が楽しみで仕方ありません(唐突)。今回は公開直前なので、前作『スパイダーマン:スパイダーバース』への思いをつらつらと。


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 まだ高校生だった頃、前作『スパイダーマン:スパイダーバース』の本編映像が『ヴェノム』のエンドロール後に流れたときは、「ああ、スパイダーマンのアニメ映画なんてやるんだ。なんか見たことないアニメーションスタイルだなぁ」ぐらいに思っていました。その数ヶ月後に海外から絶賛の声が届き、翌年に3か月遅れでようやく日本でもIMAX先行公開。当時のSNSでは口コミが本当に盛り上がっていて、私も「絶対にIMAX3Dで見ろ!」みたいなツイートを見かけたことがキッカケで、映画館まで自転車をエッサホイさ漕いでいった記憶があります。当時は学年末試験があったので公開すぐには観に行けず、2019年3月24日に観に行きました。もう4年以上前になるんですね......。

 

 私が『スパイダーマン:スパイダーバース』にどれだけ衝撃を受けたか、試しに書いてみたんですが、やたらと長くて擬音の多い文章になってしまったので今回はあえて触れないでおきます。

 

 とはいえ、この映画が私の生涯ベスト映画になったのは事実で、人生で最も多く再鑑賞した映画でもあります。しかし、私はこの映画の何が好きだったのか、好きなところが多すぎて、最も核心に刺さった箇所はどこだったのか、自分の中で腑に落ちる結論は出せずにいました。

 

 当然「貧しい若者が“大いなる責任”のために、俗世に留まりながら巨大な十字架を1人で背負う」、スパイダーマンというキャラクターのヒロイズムを解体する手段として、「他でもない(別世界の)自分自身と連帯する」という、ダン・スロットによる原案コミックからの革新的なアイディアに感激したところはあります。アルベルト・ミエルゴが確立した画期的なビジュアルも、主人公をお馴染みのピーター・パーカーでなくマイルス・モラレスに据えた点も。マイルスの成長ドラマにも泣かされました。かくいう私自身もマイルスと同様、中学時代に地元の学校からの転校を経験していて、新しい学校に馴染めず孤立した思い出があったのです。

   アニメーション革命とも呼ばれた斬新な映像表現も、わざわざ私が書かなくとも大勢の方が言及しています。大好きなラッパーたちがこぞって参加したコンピレーション・アルバムも大好きです。でも、それだけではないのです。私があの映画のどこに最も共鳴したのか、どうしても言葉が足りなかったのです。

 

   それがようやく分かったのは昨年、自分に自閉スペクトラム(ASD)とADHDがあることを知ってからでした。自分が何者なのかを知るための、人生で最大のヒントを得たのです。

   発達障害に関する本を片っ端から読んで、映画を観て、自助グループにも足を運びました。この1年間、誇張抜きに人生が一変したように思えます。人生の大前提が違っていたことにようやく気付けたんですから。

 

   主治医の先生は私の発達障害に関して、「あなたの情報を大切に扱ってくれると確信できるぐらい信頼できる相手でないならば、(発達障害を)オープンにすることにはリスクが伴う」と仰っていました。社会はこのトピックに関してまだまだ無理解なところが多く、場合によっては私が無闇に傷ついたり、同じ障害を持つ人たちを傷つけることもあるから、だそうです。口では「わかりました(キリッ」とか言ったんですけど、結局ベラベラ喋ってしまうんですよね。“ADHD併発型ASD”という、自分を説明できる明確な言葉が見つかったことが嬉しかったんです。

 

   本来は好ましくない私の雑な“オープンさ”ですが、これによって気付けたことがあります。「発達障害、またはグレーゾーンの人は、自分が想像していたよりも遥かに多かった」ということです。

   発達障害に関して勉強している、それは自分がそうだと分かったからだ、といったことを何気なく私が会話に出したところ、同じ大学にも、アルバイト先にも、「ああ、僕/私も実はそうなんだよ」なんて答えてくれる方がいらっしゃいました。私の生活の身近なところで、私と同じような闘いを繰り広げている人々はずっとそこに居たのです。ただし、場合によってはこれはアウティングにもなり得るので、今思えばもっと慎重になるべきだったと反省しています。中には「診断は受けたけれど、診断書は受け取らなかった」と仰っていた方もいらっしゃいました。

 

   最近は“ADHD”という言葉がネット・スラングになっているような感もしていて、非常にモヤモヤしますね。「俺、集中力なくて怠惰だからきっと“えーでぃーえいちでぃー”なんすよw」みたいなことを自虐のつもりで言ってる奴、未だに見かけます。未診断の当事者にはガスライティングになりますし、言う当人も含めて誰も幸せにならないんで、やめましょうね、マジで。

 

惜しい

 

  ちょっと脱線しましたが、自分以外の発達障害当事者との交流の中で最も印象的だったのは、少し前に珍しく姉と出かけたときのことです。姉の大学時代の同期にADHDの方(仮に、Aさんとします)が居て、処方薬についてもよく知っているから一度会って話してみるか、といった誘いでした。

  18時に駅集合。本当は個室のある静かな店に行くはずだったんですが、手違いがあって個室のないオープンな店に。Aさんは少し遅れて到着しました。Aさんのお話はとても共感するところも多く、参考にもなりました。薬の服用によって格段に不注意や眠気が減ること、副作用として吐き気や食欲減退があること、海外旅行に行く場合は現地で処方して貰えない場合もある、今のところ私は薬の処方は受けていませんが、大変勉強になりました。

 

 ただ、個室でなく、他の客の会話やBGM、店内のテレビの音声がごった返している店内は非常に気が散り、会話が途中で途絶えることもありました。Aさんも同様のようでしたね。

   私がトイレから戻ってくる間、我々の席の背中合わせのボックス席の3人連れが、店員さんに「このBGMの曲名、なんだっけ?」と訊いているのが聞こえてきました。信じ難いでしょうが、かつての私なら席まで歩いて行って、「これは~~~という曲です。」と指摘しに行っていました。それだけ、自分の衝動性を抑えられなかったのです。このときは「それでは相手を驚かせてしまうし、大して重要なことではない」と思いとどまることが出来たので、自分の成長を実感した次第でした。

 

   話のネタが尽きてきて、そろそろ解散かなァなんて思い始めた頃、先ほどの背中合わせのボックス席のお姉さん方の1人から視線を感じました。なんだろう、と思っていたら、話しかけて下さいました。

「ひょっとして今、“コンサータ(ADHDの処方薬)”の話をしていましたか?」

「そうなんですよ」

「私たちも飲んでいる薬です。さっきからチラチラと、隣のほうから身近な単語が聞こえてきたもので。」

   こんな感じだったでしょうか。周りの客の会話が聞こえていたのは、僕やAさんだけではなかったそうです。予期せぬ同胞との出会いに驚きました。意外と居るもんです。

お姉さん方のうちの二人がそれぞれADHD当事者で、片方は僕と同じASDとの併発型だったと記憶しています。僕やAさんよりひと回り年上の先輩方でした。

  お二人からも、Aさんと同じぐらい貴重な話をたくさん伺うことが出来ました。パーソナルな内容もあったので詳しくは触れられないですが、思わず笑っちゃう“ADHDあるある話”、“ASD失敗談”なんかもあって、楽しい時間を過ごすことが出来ました。片方の方が、こんな感じのことを仰っていました。

 

「もしこれまで、もしくはこれからの人生で、自分ではどうしようもない生きづらさを感じたとしても、それはあなたのせいではない。あなたは悪くない、障害が悪いんです。」

 

 それは、20年と少し生きてきて、私がずっと欲しかった言葉でした。

 もちろん、診断を受けた際にカウンセラーや主治医の先生も同じようなことを言ってくれましたが、偶然居合わせた赤の他人で、自分より長い時間、同じ闘いを続け、生き抜いてきた先輩から貰う言葉には、違った重みがありました。

 

   後から振り返れば、この発言は障害を当事者に付随するものと考える“疾患モデル”の考えが若干強い傾向にある意見です(対して、“社会モデル”は当事者とその周りの環境やシステムの間に“壁”となるような形で“障害”が存在すると考えます)。それでも、自分には救いになる言葉だったのは事実でした。私がもっと年齢を重ねたとき、同じ言葉を後の世代にあげられるような大人になりたいと強く思いました。そのためには自分の生活がしっかりしていないと説得力のない言葉になってしまうので、ちゃんと自立して生活できるようにならないとですね。

 

   店の閉店の時間が来て、御三方とAさんに感謝を述べて、別れました。姉はSNSアカウントを教えてもらったりしていましたが、私はスマホからSNSのアプリを消しているので、そういったことはしませんでした。一期一会が大事ですし、私はSNSでも個人間のやりとりになると基本的に事務連絡しかできないので、これでいいのです。本当に美しい経験をしました。

 駅から歩く道で姉に、いやぁ今日はセッティングしてくれてありがとう、めっちゃスパイダーバースだったわァ、なんて言ったら困惑されました。

 

   そう、ここまで長々と話した出来事と『スパイダーマン:スパイダーバース』に、一体なんの関係があるのか?

 

  大丈夫です。ちゃんと繋がります。説明しますね。

 

  私が『スパイダーバース』のストーリーで好きなところは、同じ宿命を抱えたものたちが特有の身体感覚(スパイダー・センス)によって偶然引き合わされ、交流を重ね、お互いをケアし合い、闘いが終わるとそれぞれの日常へと帰っていくところです。

 

  ボックス席の背中合わせを隔てた一連の交流は、ADHD当事者によくある「広場などの人の多い空間で必要な音声情報を取捨選択するのが難しい」という固有の身体感覚によって発生したことです。話していて分かったんですが、Aさんもお二人も、目の前の会話からついつい注意が逸れて、お互いの席の会話や店内の会話がチラチラ聞こえていたんですね。日常ベースで考えたらただの不便ですが、これ、めっちゃ“スパイダー・センス”ぽくないですか?あの場は自助グループなどではなく、偶発的に発生した引き合わせです。世代も違いますし、アイデンティティも大きく異なる人生が、あの数時間だけ小さな店内で交差したのです。これも“マルチバース”っぽい。

 

   また、私のようなASも同時に抱える併発型ADHDは、交友関係も狭くなりがちです。別にそれ自体何も悪いことだとは思わないんですが、スパイダーマンだって60年近い歴史がある割には、プライベートの交友関係は決して広くはないですよね(まぁ、悪党から恨まれたり執着されることは多いですが......)。少なくとも、『スパイダーマン:スパイダーバース』のマイルスとグウェンは、それぞれの世界で孤立していました。

   定型発達(発達障害のない人)を前提に作られた世の中で発達障害を抱えて生きていくこと、それは長く、孤独な闘いです。理解のあるサポーターが居ない方や症状に自覚のない方(ここも無理矢理『スパイダーバース』に繋げるなら、マイルスのような自分の特性との向き合い方に慣れていない人)だったら尚更だと思います。

 

   ただ、ここまで長々と書いて伝えたかったことは、先ほども書いた通り「同じ問題と闘っている人は、見えない身近なところに想像以上に居るもんですよ」ということです。決して障害を抱える苦悩を一般化したいワケではありません。発達障害は見た目で判断できない“見えない障害”、まさにスパイダーマンみたくお互いにマスクを着けているようで、可視化されにくいものです。それで苦しんだり孤立する人も多いでしょう。しかし、ベタな言い方ですが、1人じゃないですよ、っていうことを伝えたいのです。映画みたく、マルチバースが繋がる大事故が起きなくても、すぐそばの隣人の中に、同胞たちは存在します。発達障害の場合はそれが“見えづらい”だけです。

 

 

   僕が『スパイダーマン:スパイダーバース』を再鑑賞するたびに毎度泣かされるのは、エンディングのマイルスのモノローグです。

 

「誰もわかってくれないって感じた時は─(And when I feel alone, like no one understands what I'm going through,)

「仲間を思い出す(I remember my friends who get it.)

 

「僕はスパイダーマンCuz I'm Spider-Man.)

「でも1人じゃない 仲間がいる(And I'm not the only one. Not by a long shot.)

   引用:『スパイダーマン:スパイダーバース』より

 

 コミック版でもそうでしたが、この映画の素晴らしいところは、孤独なヒーローたちが集まってもアベンジャーズみたいなヒーローチームが結成されるワケではなく、皆んなでビール片手にバーベキューしてFamilyするワケでもなく、それぞれがそれぞれの孤独な闘い、孤独な日常に帰っていくところです。

 

   結局どの世界でもスパイダーマンは孤独であること、その宿命からは逃れられないのです。しかしこの映画は、それぞれ孤独な人生を送っている者たちが、どこか遠くにいる同胞に思いを馳せて幕を下ろすのです。なんてエモーショナルなんでしょう!

 自分とは違う名前、違う人物、違うアイデンティティかもしれないけれど、同じ問題と闘っている人が(ひょっとしたら豚なんかも)いるかもよ、と希望を持たせてくれるところが、まだ未診断だった高校時代の自分の核に無意識に刺さったのかもしれません。4年越しに現実の私の住む世界で、私に同じことが起こったとき、ようやくそれを実感として掴むことが出来たのです。

 

 一連の出来事を経た後にもう一度『スパイダーマン:スパイダーバース』を再鑑賞すると、まるで違って見えます。初めて見たときとは違った衝撃です。続編の前にもう一回ぐらい見ようかな。

 

 

 さて、間もなく日本でも公開される『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』は予告編を見る限り、マイルスが “スパイダーマン”というアイデンティティの核となる部分に、ある種メタ的に言及していく作品になっているようです。

 

 社会の公正のために“大いなる責任”を還元すること、そのためには個人の幸福を投げ捨て、周りの人との幸せを手放さなければならないのか?

 スティーヴ・ディッコとスタン・リーの2人がスパイダーマンを生み出して以来60年が経ってもなお纏わりつくこの“呪い”からは、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に登場したピーターたち3人ですら、誰1人逃れることが出来ませんでした。

 マイルスが次回作『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』で闘うのがこの“呪い”なのだとしたら、そりゃ応援するしかないでしょ、もう。60年の歴史の闇の側面と、正面からブチ当たっていくんですから。予告編ではメインの敵役のように紹介しているのが、マイルスと同じラテン系のルーツを持つスパイダーマン:“スパイダーマン2099”ことミゲル・オハラなのも、こういった闘いになることを示唆しているように思えます。

 個人的にはネットミームの波に溺れてしまった“東映スパイダーマン”こと山城拓也だって、この呪いから救いあげてほしいのですが、そんなオタクの願望なんて二の次で良いのです。頑張れ!マイルス!頑張れ!スパイダーマン!!

 

 なんにせよ、6月16日が楽しみです!チケット争奪戦頑張るぞ!!

 

 

【オマケ】オススメの『スパイダーバース』フォロワー作品

【アルベルト・ミエルゴ諸作品】

Netflix 『ラブ、デス&ロボット』

  シーズン1ep3「ある目撃者」

  シーズン3ep9「彼女の声」

・短編『The Windshield Wiper 』

・ゲーム『Watch Dogs: Legion』シネマティック・トレーラー

 


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【アニメーション・ルックとしてのフォロワー作品】

・アニメシリーズ『アーケイン』

・映画『ミッチェル家とマシンの反乱』

・映画『キッド・カディ:Entergalactic』

・映画『THE FIRST SLAMDANK』

 


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フィル・ロードクリストファー・ミラー過去作】

 ・映画『くもりときどきミートボール

 ・映画『LEGO ムービー』

 ・映画『レゴバットマン ザ・ムービー』(製作)

 

【2023年9月22日公開:『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』予告】


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かつてのハリポタっ子が、『アウルハウス』で救われた話。

 

 15年前、私は小学校の教室の窓際で、ホグワーツの入学案内書を咥えたフクロウを待っていました。姉と共有だった本をボロボロになるまで読み返し、ノートに呪文集を書き写し、木の枝を杖に見立てて、箒に跨って走り回り、親に手を引かれて映画館へ足を運びました。幼少期の私にとって『ハリー・ポッター』シリーズ(以下、ハリポタ)は人生の友であり、この上なく輝いていたのです。

 

  それだけにここ数年、原作者のJ・K・ローリングトランスジェンダーに対する差別運動の煽動者にまで落ちぶれたと知ったときは、深く失望したものです。“ハリポタ”のような児童文学といった類のものは、現実世界の学校や家庭、社会に居心地の悪さや疎外感を感じる子供たちにこそ最も寄り添うべき存在であるべきだからです。特に、トランスジェンダーへの差別言説が加熱している昨今のような世の中では尚更です。

 

  とはいえ、フランチャイズの持つ底力は未だ衰えておらず、ゲームや舞台等のマルチ・メディア展開、エンターテイメント施設の開業などにとどまらず、米ワーナー・ブラザーズは『ハリポタ』をHBOで、ローリングを製作総指揮に迎えた新たなドラマシリーズとしてリブートする企画まで用意しているそうです。個人的に現状では「やめときゃ良いのに......」としか思えないですけどね。送り手側も受け手側も、誰かが傷つくことが分かりきってるんだし。

  私のように、『ハリポタ』に後ろめたい感情を抱いていたり、幼少期や青春時代の思い出を穢されたような気になってしまっているファンは、少なくないと思います。

 

  長い前置きになりましたが、今回ご紹介する作品は、そんな後ろめたい思いをしている『ハリポタ』ファンの心をまるごと救ってくれるようなアニメ・シリーズです。私の場合、見るだけでセラピーになるような作品でした。

 

タイトルは『アウルハウス』

(引用:ディズニー・チャンネル公式ホームページより)

  日本での知名度は、海外カートゥーンのファンや一部のTwitterユーザーの間ではチラホラと......といった印象ですが、特に北米圏では熱狂的なファンダムを抱えるカルト的な人気シリーズです。

  日本では2023年6月現在、ディズニープラスにてシーズン2まで配信されています。

2019年から放送がスタートし、現地では今年の4月8日にシリーズ・ファイナルが放送され、これ以上にないほど完璧な完結を迎えました。(シーズン3は2023年5月現在日本未上陸ですが、本国ディズニー・チャンネルの公式YouTubeにて英語字幕版を見ることが出来ます)。

 

  かつてのハリポタ・キッズが抱いた『アウルハウス』への特大の感情を込めつつ、随所で『ハリポタ』をサブテキストにしながら紹介していきます。

  若干、本編の内容に触れることはお許しください。 

 

 

『アウルハウス』をこんな人に薦めたい!

 

 

 

アニメ『アウルハウス』あらすじ

 


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  ファンタジー小説をこよなく愛する風変わりな主人公:ルースは、学校での数々の問題行動を咎められ、教師と母親から三ヶ月間のサマーキャンプ行きを告げられてしまう。大好きなファンタジー小説をしぶしぶゴミ箱に入れ、キャンプ行きのバスを待っていると、一羽のフクロウがゴミ箱の小説を持ち去っていく。慌てて追いかけるルースが古い空き家に転がり込むと、ドアの向こうには摩訶不思議な魔法の世界が広がっていて......。

  魔法の世界“ボイリング島”に迷い込んだルースは、最強の魔女:イーダと出会い、一人前の魔女になるべく弟子入りを決意。魔法の家“アウルハウス”に居候し、奇想天外な出会いや試練を乗り越えることになる。

 

  あらすじだけ読むと、一見ごくありふれた魔法ファンタジーもののような印象です。

しかしこのアニメは、はぐれものたちがコミュニティを築いていくヒューマン・ドラマであると同時に、明確に“ハリポタ”へのクィアなアンサーとなっている作品でもあります。

 

 

魔法の世界:ボイリング島の設計

  舞台となる魔法の世界“ボイリング島”では、我々が住む現実の世界の男女二元論的なジェンダー規範が一才通用しません。どのジェンダーアイデンティティのキャラクターでも一律に“魔女(Witch)”と呼称しています。魔法使い“(Wizard)”は概念としてしか存在しない世界です。

  主人公のルースはバイセクシャルであると明確に描写されていますし(オリジナル・クリエイターのダナ・テラスもバイセクシャルであることを公表しています)、他にもあらゆるジェンダーアイデンティティを持つ多種多様なキャラクターたちが、ごく自然に登場します。ただし、そのアイデンティティ故に葛藤するようなことは殆どありません。そもそも島の住民たち自体、エルフみたいなのも居れば虫みたいなやつ、モンスターみたいなやつ、脳みそゼリーにチューブ型のフクロウにポケモンみたいなやつまで、当たり前に共存している世界なので、そんなことで迫害される余地すらないんですね。ホモフォビアという発想自体が存在しない世界です。

 

 ボイリング島には大きく二種類の魔法が存在します。

 

 “魔女”たちが生まれつき身体に持つ臓器から繰り出す魔法と、自然の中から“言語(魔法陣)”を見つけ出して、紙などに書くことによって作動させる“グリフ魔法”です。

 

 前者の場合、その威力は使用者の体力やコンディション、器量や実力によって大きく左右されるのですが、後者は魔法陣さえきれいに書ければ、どんな状況でも同じように作動します。また、魔法陣は大きく書けば書くほど、その威力は大きくなります。

 

 主人公のルースは魔法界の生まれでなく、臓器を持たないため、ボイリング島でも使う人のほとんどいないグリフ魔法を使用します。事前に魔法陣を書いておいたカードをポケットから出すことで魔法を繰り出すことになるのですが、これが何だか『カードキャプターさくら』みたいだったり、「未知の言語を学ぶことで特殊な能力を“学ぶ”」という点では、テッド・チャン原作の映画『メッセージ』ぽくもあります。東洋思想らしさもありますね。

 

 魔法の世界のアイテムといえば“ハリポタ”にも登場するような“魔法の杖”ですが、ボイリング島では魔法の杖の原材料となる木の本数が減っていて、若い世代の“魔女”たちは、持ち主の居なくなったお古の杖を古着のように再利用しています。

 

 要は、“ボイリング島”の住民たちの持つ“魔法”は再生不可能なエネルギーと再生可能なエネルギーの二つに一つであり、環境問題のメタファーであると読み取るのは難しくありません。

 

 そんな、ジェンダーフリーがほぼ完全に達成されていながらエネルギー問題を抱える魔法の世界で、悪役の“ベロス皇帝”がどのような人物として描かれているか、という点も注目ポイントです。この記事では触れられませんが、これがまたトンデモなく緻密に設計されたキャラクターになっています。名悪役ですよ。

 

 

 “ベロス皇帝”についてはいつか語りたいところですが、この記事では、本作に登場するキャラクターのうち、特にキーとなる3人にフォーカスしていきます(本当は全員に関して語りたいぐらいですが、それだと永遠に書き終えることが出来なくなるので......)。

 

 

・ルース・ノセダ ─“世界に光を照らす”主人公─


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 現代のアメリカ(恐らく東海岸側)に住むラテン系のティーンネイジャーで、物語の開始時点では母親と二人暮らしです。劇中世界のファンタジー小説『AZURA(アズーラ)』シリーズや日本アニメのオタクで、近年数を増してきたファンガールの主人公の1人でもあります。要はかつての私のような、学校で孤立した“ハリポタ”ファンの子どもが主人公なんですね。これだけでもう、既にエモいです。

 そんなルースを最も主人公たらしめているもの、ルースの持つ最大のスーパーパワーは、「誰に対しても親切で、優しく手を差し伸べること」です。それも、英雄的な使命感や過去のトラウマなんかから行っていることではなく、単に「オタク的な好奇心で、人のバックストーリーを聞くのが好きだから」などといった、生まれつきの性質や性格から来ている点が圧倒的に主人公気質ですね。あまりウジウジせず、清々しく応援しやすい王道のジャンプ系主人公です。

 

 囚人「なんで、私たちなんかを助けるの?(Why are you helping us?)」

 ルース「だって、変わり者同士は助け合わないと!(Because us weirdos have to stick together!)」

──シーズン1、第1話「うそつき魔女と怒りの番人」より

(英語字幕版から拙訳)

 

  こんな感じで、無邪気に笑顔で言ってのけるのがルース・ノセダという主人公です。一般的な感覚からすると「え?こんな奴にまで優しくするの!?」ってなるような相手にまで、何の躊躇いもなく手を差し伸べます。それでいて、マジカルな優等生といった印象ではなく、自己実現のための欲求も持っていて、特有のノリの軽さとファンガールのオタクのノリで観客に親近感を沸かせてくるところ、なんだかスパイダーマンを彷彿とさせます(特に、人種アイデンティティ的にもマイルス・モラレスの方ね)。

 とは言っても、このアニメの作り手の誠実なところは「時にはルースの優しさですら通用しないような、冷たい大人だっているよ」ということを、子供向けアニメでしっかりとメッセージとして伝えている点です。ルースがピンチに陥るとき、それは大抵、彼女の優しさが仇となったり、利用されたりするときなのです(特に、各シーズンの終盤は)。シーズン2の終盤からはこれにメンタルヘルスの問題も絡んできたりします。個人的な印象ですが、他人に優しい人ほど精神的に追い詰められた際、「全て自分のせいだ」だとか「皆んな私を嫌っている/嫌うに違いない」みたいに、一人で問題を抱え込みがちですよね。子供向けアニメとは思えないほどの生々しさです。

 

 このアニメにはイントロにオープニング・アニメーションが付いているのですが、イントロ映像のラストでは、ルースが光の玉を召喚する魔法(ハリポタでいうところの“ルーモス”)を作動させ、空にそっと送り出し、そこでタイトルが出て、本編に入ります。


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 この“光の呪文”は、劇中世界では最も初歩的な魔法として紹介され、最も高い頻度で使用されます。しかし物語全編を振り返ると、これこそがルースを象徴するモチーフとして機能しているのです。

 ルースがこの呪文を覚えるのはシーズン1の第4話。憧れの魔女になるために一刻も早く魔法を習いたくて仕方がない、といった自己実現的な動機で行動していたルースですが、最終的に彼女は、とある人物を救うためにこの呪文を体得します。最初に覚えた魔法はたとえ初歩的でも、誰かを思いやることで大きな力を発揮するのです。“優しさ”こそが初心の第一歩なんて、なんだか哲学的だけど、真理だよなァ......。

 

  本作の人間ドラマは、人間界という外の世界から現れたルースの持つ、他者への思いやりや興味関心が、ある種の“触媒”となることで、ボイリング島の住民同士がお互いに何かしらのケアをするようになっていく、という点が特徴的です。まさに、燻っていた人間関係に、主人公が“光を灯す”ことで大きな変化をもたらしていく、それがドラマ自体の大きな原動力になっているんですね。(─“世界に光を照らす”─っていう煽り文も、私が変にポエティックになったワケじゃなくて、本当にルースの象徴モチーフなだけなんですよ!)

 ファイナル・シーズンでは、この“光“のモチーフが非常にエモーショナルに、詩的に、感動的に用いられます。ぜひご自身の目で見て頂きたいです。

 

【2023/7/5追記】

 スペイン語で“Luz”は“光”を意味するそうです。いやはや。

 

 

・イーダ・クロウソーン ─“病”を抱きしめる中年女性のヒーロー像─

 イーダは“アウル・レディ”の通り名で知られる、ボイリング島で最強の実力を誇る魔女で、人間界とのポータルとなる魔法のドアの持ち主です(ポスターや動画の白髪の女性がイーダです)。人間界のガラクタや魔法薬を売ることで生計を立てています。大雑把でアウトローなキャラクターですが、仲間思いの熱い一面も持つ人物です。人間界のガラクタを集める収集癖があり、片付けが得意ではないようで、彼女が住んでいる魔法の家“アウルハウス”も、全体的に物が多く、魔法で部屋が増えまくり、迷路みたいになっています。ルースは彼女の元に弟子入り......というより、居候することになります。

 

 イーダはADHD(注意欠如・多動障害)のメタファーが多く見受けられるキャラクターです。

 

 ファンの間ではよく、ルースの方がADHDであるという解釈の方をよく見かけるのですが、個人的にはイーダの方こそ、だと思います。明確なモチーフやエピソードが確信犯的で分かりやすいのです。

 

 イーダは「魔力の使い過ぎや急なストレスがかかった際、もしくは一定の間隔で薬を服用しないと、巨大なフクロウ型の怪物に変身して自我を失ってしまう」、という“呪い”を持っています。この“呪い”が“病”のメタファーであるように解釈することは容易ですが、何故“病”ではなく“障害”、とりわけADHDの要素を見出せるかというと、ひとつは一定間隔で服用する“薬”のモチーフと、もう一つは彼女の学生時代のエピソードにあります(念のため補足しておくと、ADHDASDといった生まれつきの発達障害を“病”と表現するのは正確ではなく、議論が多々あります)。

 

 イーダが変身を防ぐために服用している黄金の魔法薬は、ADHDを持つ人に処方されるコンサータストラテラといった薬のメタファーのように思えます。これらの薬は1日1回、朝に服用することで、ADHDの特性である“日常生活に支障が出るほどの不注意や多動傾向”などをある程度抑えることが出来ますが、処方されるまでには医師による慎重な診断が必要です。コンサータの場合は診断が下りていても、専用のパスポートがなければ処方されません。

 ちなみにこの“専用のパスポート”はペラペラとした紙製のカードになっているのですが、医師やADHD当事者からはすこぶる評判が悪いです。だって、どんなに気を付けても忘れ物をしてしまったり、ズボンのポッケにうっかりポケットティッシュを入れたまま洗濯機を回してしまう、みたいな不注意を抑えるための薬が欲しいって言ってるのに、なんでこんな無個性で、失くしやすくて、再発行に体力が要りそうなものにライフラインが掛かっているんでしょうか?これを設計した行政の人間は、ADHDというものを全く理解していないのか、よっぽどブラックジョークが好きなのかのどちらかでしょうね(早口)。

 脱線しましたが、『アウルハウス』のイーダも、しばしば魔法薬の服用を忘れたり、薬が切れたり取り上げられたりして窮地に陥ります。薬に頼る生活、辛いよね。

 

 イーダの呪いは現実の発達障害とは異なり後天的に受けた呪い(中途障害)ですが、現実のADHDと同じように“治療”することが出来ません。自分自身のコントロールを保つために薬に頼らなければならない、という切実な状況も、ADHD当事者としては共感するところでした。

 

 また、イーダの学生時代にスポットライトが当たるエピソードがいくつかあるのですが、学生時代のイーダは文武両道で成績優秀な一方、特定の物事に一点集中することが出来ず、注意や関心が散らばり、色んな教室を行ったり来たりしたり、進んでスリルを求めてハイリスクなイタズラに頭を突っ込む問題児で、トラブルを起こしては校長室に呼び出されています。かくいう私自身も、小中学校時代はよく職員室や校長室に呼び出されて迷惑をかけていましたね......。

 そしてイーダは、お祝いのクラッカーの閃光と音にパニック発作を起こし、父親を傷つけてしまった過去を持っていたことが明かされます。このシーンがまさに、“病”は“病”でも、発達障害やその二次障害の視覚/聴覚過敏、てんかん等のメタファーであることの根拠となり得ていると思います。

 

↓以下、しばらく若干本編の内容に触れます↓

 

 イーダのキャラクター・アークの中で最も感銘を受けたのは、当初は呪いを解くことを目的としていたキャラクターだったのが、シーズン1のクライマックスで呪いの真実を知った後、“病”との向き合い方を見つめ直すキャラクターへと変化していく点です。

 シーズン2の第8話で、イーダは悪夢を見ることで自らの精神世界へと入っていき、“呪い=病”の象徴であるフクロウの化け物と対峙します。はじめはフクロウを“治療”するために飛びかかるイーダですが、やがて疲れ果て、黄金(魔法薬の色)の海の砂浜で、赤い糸で繋がれた化け物を抱き抱え、撫でながら餌付けします。

 

「私たちがここにいることは嫌でも変えられない(Listen, neither of us want to be here, but we are, and there's no changing that.)」

「お互いを受け入れないと悪夢は終わらないんだ(If we can't accsept each other, this nightmare will never end.)」

──シーズン2、第8話「なんでも解決、おたすけフーティ」より

 

 夢から覚めたイーダは、通常の人間状態とフクロウへの変身形態の中間のような、ハーピー型の形態へと変身していました。自我は保たれています。鏡に映る自分の姿を見たイーダはこれを気に入ります。

 

 イーダは自らの“病/障害”を受け入れることで、それ以前とはまるで違った能力を授かることになり、パワーアップを遂げるのです。

 これがまさに、成人した後にADHDの診断を受けた大人が自らの特性を学んだり、時に拒絶したり、葛藤することで成長し、新たなアイデンティティを確立していく様子を彷彿とさせます。要は、障害を持った人が自らの障害を受容する過程をしっかりと描いているんですね。

 

 このアニメを見る観客の中には当然ADHDの子供もいるでしょうし、ひょっとしたら、子供の隣で見ている親御さんも、テレビに映るイーダの物語がキッカケで未診断のADHDに気づくことが出来る......なんてこともあるかもしれないですね。実際、『X-MEN』の“クイックシルバー”というキャラクターを見たことがキッカケで自分のADHDに気づいた、なんてケースも聞いたことがありますし。

 

 そもそもADHDは数十年前まで子供、もしくは男性にのみ現れる発達傾向と考えられていて、“女性のADHD”の存在自体がないこととされていました。今年度のアカデミー賞を総ナメした映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主人公もADHDを持つ中年女性でしたし、今後もこのようなキャラクターは子供向けアニメに限らず、広い分野で誠実に表象されることを願うばかりです(エブエブについてもいつか語りたいですね)。

 

 

・アミティ・ブライト ─“誠の友”を得たドラコ・マルフォイ─

 

 少し脱線して、ハリポタの話をします。というのも、このアミティというキャラクターは、明らかに“ハリポタ”シリーズのヒール役:ドラコを意識して設計されており、必然的に彼をサブテクストとして語るべき存在だからです。

 

 『ハリポタ』シリーズは基本的に、主人公のハリーから視点は動かずに物語が進行するものの、複数の“裏主人公”が登場します。私がその中でも特に顕著だと思うのが、第1巻から登場するドラコ・マルフォイ。ドラコは、ハリーたちの所属する“グリフィンドール寮”と歪み合う“スリザリン寮”の生徒で、ハリーらに対して侮辱的な態度を取ったり、やたらと邪魔をしてくる意地悪なやつです。

 注目してほしいのがハリーとドラコ、両者のキャラクターとしてのセットアップの意図的な対象性と近似性です。

 



 ハリーは半純血の混血児。対して、ドラコは保守的・エリート思想の純血の家系。ハリーの養父母は悪質なネグレクトをするのに対して、ドラコの父親は過保護で、息子に排他的な思想とエリート教育を叩き込みます。

 何より、ハリーには腹を割って話せる真の友、ロンとハーマイオニーがいます。対して、ドラコにはバカな取り巻きが大勢いるものの、彼のことを真剣にフォローしてくれるような友人は誰一人として居ません。

 

「スリザリンではもしかして 君は誠の友を得る どんな手段を使っても 目的とげる狡猾さ」

引用:『ハリー・ポッターと賢者の石』第7章「組み分け帽子」より

 

 これは“ハリポタ”第1巻に”組み分け帽子”が初登場した際、新入生にスリザリン寮を紹介するために歌い上げた歌です。皮肉なことにも、最初から最後まで“誠の友”を得ることのなかったドラコが所属するスリザリン寮が、このように紹介されているのです。ドラコがハリーに執着するのは、彼が持っていないものをハリーが全て持ち合わせているからに他なりません。

 

 “ハリポタ”のシリーズを通しての命題のひとつは「世代間の呪いをどう断ち切るか」という問いかけです。ハリーとドラコは、実はこの命題を最も分かりやすく共有した二人でもあります。

 

 ハリーの場合“世代間の呪い”とは、亡き父によるスネイプへのいじめ加害です。第六巻でこの過去を知ったハリーはそれまでの“理想の父親像”を破壊され、読者の側も「善玉のグリフィンドール」「悪玉のスリザリン」という刷り込みをひっくり返されます。やがてハリーはスネイプの物語を知ることになり、スネイプがハリーの母:リリーと、他ならぬハリーへ抱いていた複雑な思いと愛情を知ることになります。そして、最終巻のエピローグ、ハリーはキングス・クロス駅のホームで息子:アルバスに、スリザリン寮への偏見を捨てるよう優しく言い聞かせることで、世代間の憎しみの連鎖を断ち切り、ジェームズ/セブルス/リリー/ハリーらの二世代に渡る物語の円環が閉じます。

 

 ドラコの場合も、“世代間の呪い”とはハリーと同様、父親からの呪いに変わりありません。ところどころで「父上は......」を枕詞にした台詞が多かったドラコでしたが、それが最も痛々しく表れるのが第六巻。ドラコは父親や闇の魔法使いたちからのプレッシャーに押しつぶされ、トイレでひとり泣いている姿をハリーに目撃されます。クライマックスでドラコはダンブルドアの殺害を命じられますが、微かな良心が残っているドラコにはそれが出来ません。

 ドラコの物語は最終巻のホグワーツでの最終決戦で完結します。ドラコの父:ルシウスは、ハリーの死亡を信じて疑わない死喰い人らと共に、闇の魔法使いの陣営に息子を手招きします。しかし、ドラコはそれに応じず、ハリーが死から復活するといち早く彼に駆け寄り、ニワトコの杖を投げ渡します。「ポッター!」と絶叫しながらハリーの元に駆けていくシーンは、シリーズにおいてドラコが最も輝いていた瞬間です。彼の物語もハリーと同じように、父親の世代からの負の連鎖を断ち切ることで完結するのです。

 

 ......そんなシーンあったっけ?という方は記憶が正しい方です。このシーンは小説版にはなく、映画版オリジナル展開として撮影されたうえ、劇場公開版では「キャラクターの変化が激し過ぎる」としてカットされた、ファンの間では有名な“幻のシーン”です。特典映像として見ることが出来ます。

 

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 どうしてこんな大事なシーンをカットしてしまったのでしょう?多少荒唐無稽でも、ドラコの成長ドラマとして充分に説得力がある着地ですし、10年に渡るシリーズの最後にそれぐらいの華を持たせてやっても良かったでしょう。本当にもったいないことをしたなぁと思います。

 

 ......ようやく、『アウルハウス』の話に戻りますね(笑)

 

 『アウルハウス』の第3話から登場するメインキャラクター:アミティ・ブライトは、“ハリポタ”本編で消化不良に終わったドラコ・マルフォイの物語のリベンジのようなキャラクターです。

 アミティのキャラクター設計は“ハリポタ”のドラコと相似する点が多々見られます。初登場時は魔法学校の意地悪な生徒として登場し、エリート主義の親からのプレッシャーに晒されながら、取り巻きに囲まれ、主人公たちと敵対する高飛車な人物として描かれます。何だかステレオタイプないじめっ子キャラですね。ほとんどドラコじゃねーか!

 しかし、『アウルハウス』と『ハリポタ』が決定的に異なるのは、主人公の気質です。人のバックストーリーを聞くのが大好きなオタクで、誰とでも仲良くなってしまうルースは、ハリーより遥かに他人に対して友好的で、コミュニケーション能力に長けているのです。

 そんなルースと一緒に過ごすうちに、アミティの悩みや葛藤、後悔といったものが浮き彫りになり、変化が見られるようになります。それだけでなく、アミティはルースと共通の趣味を見つけたりして、次第にルースに対して心を開くようになっていき、シリーズの最重要キャラクターにまで成長/変貌していきます。

 このアミティの成長を、「ドラコの物語のリベンジ」と紹介しましたが、最高なのはそのリベンジの決定打です。ルースとアミティは、一度は険悪な関係になるものの、劇中のファンタジー小説『AZURA』がきっかけで密にコミュニケーションを取るようになり、やがてはお互いを最大限にリスペクトする、優しさと愛に溢れたパートナー関係を築いていくのです(ルースはバイセクシャルで、アミティはレズビアンの設定です)。

 

 私のような人間は、こういうものを見せられると、つい思いを馳せてしまうのです。

 

「ハリーとドラコだって、どこかで違う選択をしていたら、ルースとアミティのような関係になれていたかもしれない......。」

 

 どこかでハリーがドラコに優しさを見せていたら、どこかでお互いに対する最悪な態度を解いていたら、クィディッチという共通の趣味で打ち解けることが出来たら、どこかで二人が共通の問題と闘っている事実を知ることができたら、J.K.ローリングに1ミリでもクィアな世界への理解があったら......

 ドラコはあのシリーズにおいて、全く違う性質のキャラクターに変化出来たのではないでしょうか。ドラコは「誠の友を得る」ことが出来たのではないでしょうか......?

 思い返せば、それが出来たタイミングはいくらでもあったはずです。一巻の禁じられた森のシーンとか、六巻のトイレのシーンとか、七巻のマルフォイ邸のシーンとか......たとえ「パートナー」とまでは行かなくとも、何かが違っていたらドラコの物語は早い段階で、腑に落ちる形で完結させることが出来たのかもしれないじゃないですか。

 また、“ハリポタ”に脱線してしまいましたね......(笑)。

 

 ルースとアミティの二人のドラマは、『ハリポタ』の中では実現しなかったそんな光景の、その先まで見せてくれます。いわゆる、女体をふたつ並ばせただけみたいな「安易な百合」的な消費のされ方を決して許さない、丁寧に組み立てられた、トキシックさのない関係です。二人が打ち解けていくキッカケになるのが共通のファンタジー小説である点も、作り手が創作物の持つパワー、ファンガール・カルチャーの持つ力を全面的に信頼しているようでもありますし、フィクションの世界を愛する人間からすると、胸の奥が熱くなるものがあります。持つべきは共通の趣味を持つ友ですね。

 何より、悩みながらもどんどん成長し、学び、自立し、自らの道を切り開いていくアミティというキャラクター自体が、この上なく魅力的なのです。ルースとの関係を深めるごとに、アミティの表情がどんどん柔らかくなって生き生きとしてく様子は、見ているだけで心が洗われるような気分になります。第1話でイマイチ合わなかった人も、とりあえず第16話のプロム回までは見て欲しいです。最高だから。マジで。

 

 

終わりに

 

 三人のキャラクターに一万字を超える文量になるとは思いませんでしたが、この三人以外のキャラクターたちも同じぐらい語りがいのある人物ばかりですし、キャラクターの描かれ方以外でも、語り尽くせないほどの魅力が詰まったアニメ・シリーズです。『東京喰種』や『ドラゴンボール』を彷彿とさせるアクションシーンとか、J.K.ローリングを最も強く批判するようなトランス的なキャラクターとか、各LGBTQ +フラッグの色と同じ配色になった画面のカラー・パレットとか......。

 ルースという強固な主人公こそ中心に据えているものの、サブキャラクターたちにもそれぞれしっかりとストーリーが用意されています。このシリーズはとにかくキャラクターたちの交通整理が巧みなのも特徴です。キャラクターたちの関係の変化に素早く反応して、観客が「そういえば、アイツはどうなった?」なんて疑問を持つよりも早く、適切なタイミングで絶妙な人物同士を絡ませます。特にシーズン2は、「コイツと......コイツかよ!?」ってなるような、意外なキャラクター同士の組み合わせがいくつか登場するんですが、どれもめちゃくちゃ納得がいくし、良い化学反応を起こしています。作り手がキャラクターの一人一人を本当に大切にしていることが、ひしひしと伝わってきますね。

 

 ディズニープラスのローンチ及び日本でのサービス拡大によって、これまでは高額なケーブル・テレビや円盤ソフトの輸入などでしか視聴手段のなかった海外のカートゥーンへのアクセスが、格段に容易になりました。

 冒頭にも書きましたが、『アウルハウス』はかつて“ハリポタ”に熱狂していた20~30代、そしてその子供の世代にこそ最も見てほしい作品です。しかし疑問に残るのが、コンテンツに溢れる現代を生きる子供たち、あるいはその親がディズニープラスに加入していたとして、『アウルハウス』の再生ボタンにまで辿り着くまでって、どれぐらいのハードルがあるんでしょうか?作品へのアクセス自体は確保された分、『アウルハウス』のような作品って、サブスクのUIに並ぶ数多の他の作品の中に埋もれてしまっているような気がするんですよね。

 それに最近のディズニーは、ライセンス料の元が取れるほどの人気のない作品ならば、たとえ最新のオリジナル作だろうと、ディズニープラスでの配信を終了しています。『アウルハウス』ほどよく出来た作品が子供に届くことなく日本で見られなくなる、なんて最悪な事態は絶対に回避してほしいのですが、そのためには僕のようなファンが精力的に紹介していくしか、ないんでしょうかね......?

 

 

  『マトリックス』シリーズのウォシャウスキー姉妹によるドラマ『Sence8』にこんな台詞があります。

 

「アートは弁証法だ。分かち合えば豊かになり…」

「所有や商品化によって貧しくなる」

─引用:『Since8 センス8』Netflix

 

 『アウルハウス』も商品であることに変わりはありませんが、このアニメは映画産業と市場によって巨大IPとして過度に“商品化され、原作者の手によってですら本来の“豊かさ”を損なってしまった“ハリポタ”という”物語“に対して、子供向けに優しく展開された弁証法であるといえます。「人類の歴史は人権の歴史」とも言いますが、映画やアニメに限らず、あらゆる物語は時代の流れと価値観の変化に伴って、いつかは古びていくものです。『アウルハウス』だって、いつかは古い時代のものになることを願うばかりですが、こうして新しい世代のクリエイターが物語の語り手としてのバトンを受け継いで、次の世代に向けて、前の世代が見落としていたものをしっかりと包括して“語り直す”ことこそが、人類の進歩そのものであると思うのです。“物語”、言い換えれば“テーゼ”や”ナラティヴ”と呼ばれるようなものは人類が発明した物の中で最も力を持つものであり、人類が築いた文明世界の大部分を構成しているからです。

 

 

 『ハリー・ポッター』のハリーの冒険はフクロウが“来る”ことで始まり、息子を学びの場に“送り出す”ことで終わりますが、『アウルハウス』のルースの冒険はフクロウを“追う”ことで始まり、自らが新たな学びの場に“送り出される”ことで終わります。

 極東の島国の小学生だった私のところにフクロウは来ませんでしたが、フクロウなど待たずとも、自らが進んで学んで行動していくことでボイリング島のような楽園を作ることが出来るのなら、次の時代を明るいものに出来るのなら、それだけ素晴らしいことはないでしょう。

 

ありがとう『アウルハウス』!私の中で止まっていた、魔法の世界の続きを見せてくれて。

 

 ↓ディズニープラス『アウルハウス』視聴ページ↓

https://www.disneyplus.com/ja-jp/series/the-owl-house/4cOTrEy0YyaX

 

 

初めまして。人生にガンギまってるポテトです。

初めまして。ガンギマリポテトと申します。以前はボトムマンという名義でTwitterYouTube、noteをやってました。メンタルに悪影響が出てきたのでネットとは距離を空けるようにしていたのですが、色々と思うところがあり、またまた拙い文章を広大なネットの海に放り投げていきたいと思います。今度こそマイペースに、ゆっくりとやって行きます。15分に1回取り憑いたように144文字を呟いてたツイ廃時代には戻らないように、慎重にですが……。

自己紹介

ギリギリ大学生です。北米圏の映画/ドラマ/アニメが好きで、幼少期はもっぱらカートゥーン・ネットワークディズニーチャンネルと言った、ケーブル・テレビの番組で育てられました(ニチアサとかは何故か親が見せてくれなかったんですよ……)。某大学の映像系学科に所属し、いちおう学生映画の世界に身を置いております。すぐに卒業する予定ですが……。
1年ほど前からカウンセリングに通い初めて、自分に発達障害(ADHD併発型自閉スペクトラム)があることがようやく分かりました(もうすぐ診断書も降りる予定です)。最近は発達障害のことを勉強しつつ、“見えにくい障害”を“見せるメディア”である映像の分野で表象することの難しさを痛感しています。
現段階では自分のことをAロマンティックであるとラベリングしています。元々対人関係は得意ではないので、だからと言って実生活で困るようなことは多くはないのですが、Aスペクトラムのコミュニティとは連帯の意志を示して行きたいです。

このブログでやりたいこと

このブログでは主に映像作品や海外のコミックを紹介したり、感想や軽い批評をして行きたいです。特に、届くべく人に届いていないように思える作品。海外のカートゥーンや世界のマイナーなヒーロー映画、発達障害アセクシャル/アロマンティックを扱った作品なんかを紹介出来たらなぁと思っています。雑談も挟むかもしれないです。三日坊主の常習犯ですが、マイペースにやって行きたいと思います。どうぞよろしくお願いします!