かつてのハリポタっ子が、『アウルハウス』で救われた話。

 

 15年前、私は小学校の教室の窓際で、ホグワーツの入学案内書を咥えたフクロウを待っていました。姉と共有だった本をボロボロになるまで読み返し、ノートに呪文集を書き写し、木の枝を杖に見立てて、箒に跨って走り回り、親に手を引かれて映画館へ足を運びました。幼少期の私にとって『ハリー・ポッター』シリーズ(以下、ハリポタ)は人生の友であり、この上なく輝いていたのです。

 

  それだけにここ数年、原作者のJ・K・ローリングトランスジェンダーに対する差別運動の煽動者にまで落ちぶれたと知ったときは、深く失望したものです。“ハリポタ”のような児童文学といった類のものは、現実世界の学校や家庭、社会に居心地の悪さや疎外感を感じる子供たちにこそ最も寄り添うべき存在であるべきだからです。特に、トランスジェンダーへの差別言説が加熱している昨今のような世の中では尚更です。

 

  とはいえ、フランチャイズの持つ底力は未だ衰えておらず、ゲームや舞台等のマルチ・メディア展開、エンターテイメント施設の開業などにとどまらず、米ワーナー・ブラザーズは『ハリポタ』をHBOで、ローリングを製作総指揮に迎えた新たなドラマシリーズとしてリブートする企画まで用意しているそうです。個人的に現状では「やめときゃ良いのに......」としか思えないですけどね。送り手側も受け手側も、誰かが傷つくことが分かりきってるんだし。

  私のように、『ハリポタ』に後ろめたい感情を抱いていたり、幼少期や青春時代の思い出を穢されたような気になってしまっているファンは、少なくないと思います。

 

  長い前置きになりましたが、今回ご紹介する作品は、そんな後ろめたい思いをしている『ハリポタ』ファンの心をまるごと救ってくれるようなアニメ・シリーズです。私の場合、見るだけでセラピーになるような作品でした。

 

タイトルは『アウルハウス』

(引用:ディズニー・チャンネル公式ホームページより)

  日本での知名度は、海外カートゥーンのファンや一部のTwitterユーザーの間ではチラホラと......といった印象ですが、特に北米圏では熱狂的なファンダムを抱えるカルト的な人気シリーズです。

  日本では2023年6月現在、ディズニープラスにてシーズン2まで配信されています。

2019年から放送がスタートし、現地では今年の4月8日にシリーズ・ファイナルが放送され、これ以上にないほど完璧な完結を迎えました。(シーズン3は2023年5月現在日本未上陸ですが、本国ディズニー・チャンネルの公式YouTubeにて英語字幕版を見ることが出来ます)。

 

  かつてのハリポタ・キッズが抱いた『アウルハウス』への特大の感情を込めつつ、随所で『ハリポタ』をサブテキストにしながら紹介していきます。

  若干、本編の内容に触れることはお許しください。 

 

 

『アウルハウス』をこんな人に薦めたい!

 

 

 

アニメ『アウルハウス』あらすじ

 


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  ファンタジー小説をこよなく愛する風変わりな主人公:ルースは、学校での数々の問題行動を咎められ、教師と母親から三ヶ月間のサマーキャンプ行きを告げられてしまう。大好きなファンタジー小説をしぶしぶゴミ箱に入れ、キャンプ行きのバスを待っていると、一羽のフクロウがゴミ箱の小説を持ち去っていく。慌てて追いかけるルースが古い空き家に転がり込むと、ドアの向こうには摩訶不思議な魔法の世界が広がっていて......。

  魔法の世界“ボイリング島”に迷い込んだルースは、最強の魔女:イーダと出会い、一人前の魔女になるべく弟子入りを決意。魔法の家“アウルハウス”に居候し、奇想天外な出会いや試練を乗り越えることになる。

 

  あらすじだけ読むと、一見ごくありふれた魔法ファンタジーもののような印象です。

しかしこのアニメは、はぐれものたちがコミュニティを築いていくヒューマン・ドラマであると同時に、明確に“ハリポタ”へのクィアなアンサーとなっている作品でもあります。

 

 

魔法の世界:ボイリング島の設計

  舞台となる魔法の世界“ボイリング島”では、我々が住む現実の世界の男女二元論的なジェンダー規範が一才通用しません。どのジェンダーアイデンティティのキャラクターでも一律に“魔女(Witch)”と呼称しています。魔法使い“(Wizard)”は概念としてしか存在しない世界です。

  主人公のルースはバイセクシャルであると明確に描写されていますし(オリジナル・クリエイターのダナ・テラスもバイセクシャルであることを公表しています)、他にもあらゆるジェンダーアイデンティティを持つ多種多様なキャラクターたちが、ごく自然に登場します。ただし、そのアイデンティティ故に葛藤するようなことは殆どありません。そもそも島の住民たち自体、エルフみたいなのも居れば虫みたいなやつ、モンスターみたいなやつ、脳みそゼリーにチューブ型のフクロウにポケモンみたいなやつまで、当たり前に共存している世界なので、そんなことで迫害される余地すらないんですね。ホモフォビアという発想自体が存在しない世界です。

 

 ボイリング島には大きく二種類の魔法が存在します。

 

 “魔女”たちが生まれつき身体に持つ臓器から繰り出す魔法と、自然の中から“言語(魔法陣)”を見つけ出して、紙などに書くことによって作動させる“グリフ魔法”です。

 

 前者の場合、その威力は使用者の体力やコンディション、器量や実力によって大きく左右されるのですが、後者は魔法陣さえきれいに書ければ、どんな状況でも同じように作動します。また、魔法陣は大きく書けば書くほど、その威力は大きくなります。

 

 主人公のルースは魔法界の生まれでなく、臓器を持たないため、ボイリング島でも使う人のほとんどいないグリフ魔法を使用します。事前に魔法陣を書いておいたカードをポケットから出すことで魔法を繰り出すことになるのですが、これが何だか『カードキャプターさくら』みたいだったり、「未知の言語を学ぶことで特殊な能力を“学ぶ”」という点では、テッド・チャン原作の映画『メッセージ』ぽくもあります。東洋思想らしさもありますね。

 

 魔法の世界のアイテムといえば“ハリポタ”にも登場するような“魔法の杖”ですが、ボイリング島では魔法の杖の原材料となる木の本数が減っていて、若い世代の“魔女”たちは、持ち主の居なくなったお古の杖を古着のように再利用しています。

 

 要は、“ボイリング島”の住民たちの持つ“魔法”は再生不可能なエネルギーと再生可能なエネルギーの二つに一つであり、環境問題のメタファーであると読み取るのは難しくありません。

 

 そんな、ジェンダーフリーがほぼ完全に達成されていながらエネルギー問題を抱える魔法の世界で、悪役の“ベロス皇帝”がどのような人物として描かれているか、という点も注目ポイントです。この記事では触れられませんが、これがまたトンデモなく緻密に設計されたキャラクターになっています。名悪役ですよ。

 

 

 “ベロス皇帝”についてはいつか語りたいところですが、この記事では、本作に登場するキャラクターのうち、特にキーとなる3人にフォーカスしていきます(本当は全員に関して語りたいぐらいですが、それだと永遠に書き終えることが出来なくなるので......)。

 

 

・ルース・ノセダ ─“世界に光を照らす”主人公─


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 現代のアメリカ(恐らく東海岸側)に住むラテン系のティーンネイジャーで、物語の開始時点では母親と二人暮らしです。劇中世界のファンタジー小説『AZURA(アズーラ)』シリーズや日本アニメのオタクで、近年数を増してきたファンガールの主人公の1人でもあります。要はかつての私のような、学校で孤立した“ハリポタ”ファンの子どもが主人公なんですね。これだけでもう、既にエモいです。

 そんなルースを最も主人公たらしめているもの、ルースの持つ最大のスーパーパワーは、「誰に対しても親切で、優しく手を差し伸べること」です。それも、英雄的な使命感や過去のトラウマなんかから行っていることではなく、単に「オタク的な好奇心で、人のバックストーリーを聞くのが好きだから」などといった、生まれつきの性質や性格から来ている点が圧倒的に主人公気質ですね。あまりウジウジせず、清々しく応援しやすい王道のジャンプ系主人公です。

 

 囚人「なんで、私たちなんかを助けるの?(Why are you helping us?)」

 ルース「だって、変わり者同士は助け合わないと!(Because us weirdos have to stick together!)」

──シーズン1、第1話「うそつき魔女と怒りの番人」より

(英語字幕版から拙訳)

 

  こんな感じで、無邪気に笑顔で言ってのけるのがルース・ノセダという主人公です。一般的な感覚からすると「え?こんな奴にまで優しくするの!?」ってなるような相手にまで、何の躊躇いもなく手を差し伸べます。それでいて、マジカルな優等生といった印象ではなく、自己実現のための欲求も持っていて、特有のノリの軽さとファンガールのオタクのノリで観客に親近感を沸かせてくるところ、なんだかスパイダーマンを彷彿とさせます(特に、人種アイデンティティ的にもマイルス・モラレスの方ね)。

 とは言っても、このアニメの作り手の誠実なところは「時にはルースの優しさですら通用しないような、冷たい大人だっているよ」ということを、子供向けアニメでしっかりとメッセージとして伝えている点です。ルースがピンチに陥るとき、それは大抵、彼女の優しさが仇となったり、利用されたりするときなのです(特に、各シーズンの終盤は)。シーズン2の終盤からはこれにメンタルヘルスの問題も絡んできたりします。個人的な印象ですが、他人に優しい人ほど精神的に追い詰められた際、「全て自分のせいだ」だとか「皆んな私を嫌っている/嫌うに違いない」みたいに、一人で問題を抱え込みがちですよね。子供向けアニメとは思えないほどの生々しさです。

 

 このアニメにはイントロにオープニング・アニメーションが付いているのですが、イントロ映像のラストでは、ルースが光の玉を召喚する魔法(ハリポタでいうところの“ルーモス”)を作動させ、空にそっと送り出し、そこでタイトルが出て、本編に入ります。


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 この“光の呪文”は、劇中世界では最も初歩的な魔法として紹介され、最も高い頻度で使用されます。しかし物語全編を振り返ると、これこそがルースを象徴するモチーフとして機能しているのです。

 ルースがこの呪文を覚えるのはシーズン1の第4話。憧れの魔女になるために一刻も早く魔法を習いたくて仕方がない、といった自己実現的な動機で行動していたルースですが、最終的に彼女は、とある人物を救うためにこの呪文を体得します。最初に覚えた魔法はたとえ初歩的でも、誰かを思いやることで大きな力を発揮するのです。“優しさ”こそが初心の第一歩なんて、なんだか哲学的だけど、真理だよなァ......。

 

  本作の人間ドラマは、人間界という外の世界から現れたルースの持つ、他者への思いやりや興味関心が、ある種の“触媒”となることで、ボイリング島の住民同士がお互いに何かしらのケアをするようになっていく、という点が特徴的です。まさに、燻っていた人間関係に、主人公が“光を灯す”ことで大きな変化をもたらしていく、それがドラマ自体の大きな原動力になっているんですね。(─“世界に光を照らす”─っていう煽り文も、私が変にポエティックになったワケじゃなくて、本当にルースの象徴モチーフなだけなんですよ!)

 ファイナル・シーズンでは、この“光“のモチーフが非常にエモーショナルに、詩的に、感動的に用いられます。ぜひご自身の目で見て頂きたいです。

 

【2023/7/5追記】

 スペイン語で“Luz”は“光”を意味するそうです。いやはや。

 

 

・イーダ・クロウソーン ─“病”を抱きしめる中年女性のヒーロー像─

 イーダは“アウル・レディ”の通り名で知られる、ボイリング島で最強の実力を誇る魔女で、人間界とのポータルとなる魔法のドアの持ち主です(ポスターや動画の白髪の女性がイーダです)。人間界のガラクタや魔法薬を売ることで生計を立てています。大雑把でアウトローなキャラクターですが、仲間思いの熱い一面も持つ人物です。人間界のガラクタを集める収集癖があり、片付けが得意ではないようで、彼女が住んでいる魔法の家“アウルハウス”も、全体的に物が多く、魔法で部屋が増えまくり、迷路みたいになっています。ルースは彼女の元に弟子入り......というより、居候することになります。

 

 イーダはADHD(注意欠如・多動障害)のメタファーが多く見受けられるキャラクターです。

 

 ファンの間ではよく、ルースの方がADHDであるという解釈の方をよく見かけるのですが、個人的にはイーダの方こそ、だと思います。明確なモチーフやエピソードが確信犯的で分かりやすいのです。

 

 イーダは「魔力の使い過ぎや急なストレスがかかった際、もしくは一定の間隔で薬を服用しないと、巨大なフクロウ型の怪物に変身して自我を失ってしまう」、という“呪い”を持っています。この“呪い”が“病”のメタファーであるように解釈することは容易ですが、何故“病”ではなく“障害”、とりわけADHDの要素を見出せるかというと、ひとつは一定間隔で服用する“薬”のモチーフと、もう一つは彼女の学生時代のエピソードにあります(念のため補足しておくと、ADHDASDといった生まれつきの発達障害を“病”と表現するのは正確ではなく、議論が多々あります)。

 

 イーダが変身を防ぐために服用している黄金の魔法薬は、ADHDを持つ人に処方されるコンサータストラテラといった薬のメタファーのように思えます。これらの薬は1日1回、朝に服用することで、ADHDの特性である“日常生活に支障が出るほどの不注意や多動傾向”などをある程度抑えることが出来ますが、処方されるまでには医師による慎重な診断が必要です。コンサータの場合は診断が下りていても、専用のパスポートがなければ処方されません。

 ちなみにこの“専用のパスポート”はペラペラとした紙製のカードになっているのですが、医師やADHD当事者からはすこぶる評判が悪いです。だって、どんなに気を付けても忘れ物をしてしまったり、ズボンのポッケにうっかりポケットティッシュを入れたまま洗濯機を回してしまう、みたいな不注意を抑えるための薬が欲しいって言ってるのに、なんでこんな無個性で、失くしやすくて、再発行に体力が要りそうなものにライフラインが掛かっているんでしょうか?これを設計した行政の人間は、ADHDというものを全く理解していないのか、よっぽどブラックジョークが好きなのかのどちらかでしょうね(早口)。

 脱線しましたが、『アウルハウス』のイーダも、しばしば魔法薬の服用を忘れたり、薬が切れたり取り上げられたりして窮地に陥ります。薬に頼る生活、辛いよね。

 

 イーダの呪いは現実の発達障害とは異なり後天的に受けた呪い(中途障害)ですが、現実のADHDと同じように“治療”することが出来ません。自分自身のコントロールを保つために薬に頼らなければならない、という切実な状況も、ADHD当事者としては共感するところでした。

 

 また、イーダの学生時代にスポットライトが当たるエピソードがいくつかあるのですが、学生時代のイーダは文武両道で成績優秀な一方、特定の物事に一点集中することが出来ず、注意や関心が散らばり、色んな教室を行ったり来たりしたり、進んでスリルを求めてハイリスクなイタズラに頭を突っ込む問題児で、トラブルを起こしては校長室に呼び出されています。かくいう私自身も、小中学校時代はよく職員室や校長室に呼び出されて迷惑をかけていましたね......。

 そしてイーダは、お祝いのクラッカーの閃光と音にパニック発作を起こし、父親を傷つけてしまった過去を持っていたことが明かされます。このシーンがまさに、“病”は“病”でも、発達障害やその二次障害の視覚/聴覚過敏、てんかん等のメタファーであることの根拠となり得ていると思います。

 

↓以下、しばらく若干本編の内容に触れます↓

 

 イーダのキャラクター・アークの中で最も感銘を受けたのは、当初は呪いを解くことを目的としていたキャラクターだったのが、シーズン1のクライマックスで呪いの真実を知った後、“病”との向き合い方を見つめ直すキャラクターへと変化していく点です。

 シーズン2の第8話で、イーダは悪夢を見ることで自らの精神世界へと入っていき、“呪い=病”の象徴であるフクロウの化け物と対峙します。はじめはフクロウを“治療”するために飛びかかるイーダですが、やがて疲れ果て、黄金(魔法薬の色)の海の砂浜で、赤い糸で繋がれた化け物を抱き抱え、撫でながら餌付けします。

 

「私たちがここにいることは嫌でも変えられない(Listen, neither of us want to be here, but we are, and there's no changing that.)」

「お互いを受け入れないと悪夢は終わらないんだ(If we can't accsept each other, this nightmare will never end.)」

──シーズン2、第8話「なんでも解決、おたすけフーティ」より

 

 夢から覚めたイーダは、通常の人間状態とフクロウへの変身形態の中間のような、ハーピー型の形態へと変身していました。自我は保たれています。鏡に映る自分の姿を見たイーダはこれを気に入ります。

 

 イーダは自らの“病/障害”を受け入れることで、それ以前とはまるで違った能力を授かることになり、パワーアップを遂げるのです。

 これがまさに、成人した後にADHDの診断を受けた大人が自らの特性を学んだり、時に拒絶したり、葛藤することで成長し、新たなアイデンティティを確立していく様子を彷彿とさせます。要は、障害を持った人が自らの障害を受容する過程をしっかりと描いているんですね。

 

 このアニメを見る観客の中には当然ADHDの子供もいるでしょうし、ひょっとしたら、子供の隣で見ている親御さんも、テレビに映るイーダの物語がキッカケで未診断のADHDに気づくことが出来る......なんてこともあるかもしれないですね。実際、『X-MEN』の“クイックシルバー”というキャラクターを見たことがキッカケで自分のADHDに気づいた、なんてケースも聞いたことがありますし。

 

 そもそもADHDは数十年前まで子供、もしくは男性にのみ現れる発達傾向と考えられていて、“女性のADHD”の存在自体がないこととされていました。今年度のアカデミー賞を総ナメした映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主人公もADHDを持つ中年女性でしたし、今後もこのようなキャラクターは子供向けアニメに限らず、広い分野で誠実に表象されることを願うばかりです(エブエブについてもいつか語りたいですね)。

 

 

・アミティ・ブライト ─“誠の友”を得たドラコ・マルフォイ─

 

 少し脱線して、ハリポタの話をします。というのも、このアミティというキャラクターは、明らかに“ハリポタ”シリーズのヒール役:ドラコを意識して設計されており、必然的に彼をサブテクストとして語るべき存在だからです。

 

 『ハリポタ』シリーズは基本的に、主人公のハリーから視点は動かずに物語が進行するものの、複数の“裏主人公”が登場します。私がその中でも特に顕著だと思うのが、第1巻から登場するドラコ・マルフォイ。ドラコは、ハリーたちの所属する“グリフィンドール寮”と歪み合う“スリザリン寮”の生徒で、ハリーらに対して侮辱的な態度を取ったり、やたらと邪魔をしてくる意地悪なやつです。

 注目してほしいのがハリーとドラコ、両者のキャラクターとしてのセットアップの意図的な対象性と近似性です。

 



 ハリーは半純血の混血児。対して、ドラコは保守的・エリート思想の純血の家系。ハリーの養父母は悪質なネグレクトをするのに対して、ドラコの父親は過保護で、息子に排他的な思想とエリート教育を叩き込みます。

 何より、ハリーには腹を割って話せる真の友、ロンとハーマイオニーがいます。対して、ドラコにはバカな取り巻きが大勢いるものの、彼のことを真剣にフォローしてくれるような友人は誰一人として居ません。

 

「スリザリンではもしかして 君は誠の友を得る どんな手段を使っても 目的とげる狡猾さ」

引用:『ハリー・ポッターと賢者の石』第7章「組み分け帽子」より

 

 これは“ハリポタ”第1巻に”組み分け帽子”が初登場した際、新入生にスリザリン寮を紹介するために歌い上げた歌です。皮肉なことにも、最初から最後まで“誠の友”を得ることのなかったドラコが所属するスリザリン寮が、このように紹介されているのです。ドラコがハリーに執着するのは、彼が持っていないものをハリーが全て持ち合わせているからに他なりません。

 

 “ハリポタ”のシリーズを通しての命題のひとつは「世代間の呪いをどう断ち切るか」という問いかけです。ハリーとドラコは、実はこの命題を最も分かりやすく共有した二人でもあります。

 

 ハリーの場合“世代間の呪い”とは、亡き父によるスネイプへのいじめ加害です。第六巻でこの過去を知ったハリーはそれまでの“理想の父親像”を破壊され、読者の側も「善玉のグリフィンドール」「悪玉のスリザリン」という刷り込みをひっくり返されます。やがてハリーはスネイプの物語を知ることになり、スネイプがハリーの母:リリーと、他ならぬハリーへ抱いていた複雑な思いと愛情を知ることになります。そして、最終巻のエピローグ、ハリーはキングス・クロス駅のホームで息子:アルバスに、スリザリン寮への偏見を捨てるよう優しく言い聞かせることで、世代間の憎しみの連鎖を断ち切り、ジェームズ/セブルス/リリー/ハリーらの二世代に渡る物語の円環が閉じます。

 

 ドラコの場合も、“世代間の呪い”とはハリーと同様、父親からの呪いに変わりありません。ところどころで「父上は......」を枕詞にした台詞が多かったドラコでしたが、それが最も痛々しく表れるのが第六巻。ドラコは父親や闇の魔法使いたちからのプレッシャーに押しつぶされ、トイレでひとり泣いている姿をハリーに目撃されます。クライマックスでドラコはダンブルドアの殺害を命じられますが、微かな良心が残っているドラコにはそれが出来ません。

 ドラコの物語は最終巻のホグワーツでの最終決戦で完結します。ドラコの父:ルシウスは、ハリーの死亡を信じて疑わない死喰い人らと共に、闇の魔法使いの陣営に息子を手招きします。しかし、ドラコはそれに応じず、ハリーが死から復活するといち早く彼に駆け寄り、ニワトコの杖を投げ渡します。「ポッター!」と絶叫しながらハリーの元に駆けていくシーンは、シリーズにおいてドラコが最も輝いていた瞬間です。彼の物語もハリーと同じように、父親の世代からの負の連鎖を断ち切ることで完結するのです。

 

 ......そんなシーンあったっけ?という方は記憶が正しい方です。このシーンは小説版にはなく、映画版オリジナル展開として撮影されたうえ、劇場公開版では「キャラクターの変化が激し過ぎる」としてカットされた、ファンの間では有名な“幻のシーン”です。特典映像として見ることが出来ます。

 

youtu.be

 

 どうしてこんな大事なシーンをカットしてしまったのでしょう?多少荒唐無稽でも、ドラコの成長ドラマとして充分に説得力がある着地ですし、10年に渡るシリーズの最後にそれぐらいの華を持たせてやっても良かったでしょう。本当にもったいないことをしたなぁと思います。

 

 ......ようやく、『アウルハウス』の話に戻りますね(笑)

 

 『アウルハウス』の第3話から登場するメインキャラクター:アミティ・ブライトは、“ハリポタ”本編で消化不良に終わったドラコ・マルフォイの物語のリベンジのようなキャラクターです。

 アミティのキャラクター設計は“ハリポタ”のドラコと相似する点が多々見られます。初登場時は魔法学校の意地悪な生徒として登場し、エリート主義の親からのプレッシャーに晒されながら、取り巻きに囲まれ、主人公たちと敵対する高飛車な人物として描かれます。何だかステレオタイプないじめっ子キャラですね。ほとんどドラコじゃねーか!

 しかし、『アウルハウス』と『ハリポタ』が決定的に異なるのは、主人公の気質です。人のバックストーリーを聞くのが大好きなオタクで、誰とでも仲良くなってしまうルースは、ハリーより遥かに他人に対して友好的で、コミュニケーション能力に長けているのです。

 そんなルースと一緒に過ごすうちに、アミティの悩みや葛藤、後悔といったものが浮き彫りになり、変化が見られるようになります。それだけでなく、アミティはルースと共通の趣味を見つけたりして、次第にルースに対して心を開くようになっていき、シリーズの最重要キャラクターにまで成長/変貌していきます。

 このアミティの成長を、「ドラコの物語のリベンジ」と紹介しましたが、最高なのはそのリベンジの決定打です。ルースとアミティは、一度は険悪な関係になるものの、劇中のファンタジー小説『AZURA』がきっかけで密にコミュニケーションを取るようになり、やがてはお互いを最大限にリスペクトする、優しさと愛に溢れたパートナー関係を築いていくのです(ルースはバイセクシャルで、アミティはレズビアンの設定です)。

 

 私のような人間は、こういうものを見せられると、つい思いを馳せてしまうのです。

 

「ハリーとドラコだって、どこかで違う選択をしていたら、ルースとアミティのような関係になれていたかもしれない......。」

 

 どこかでハリーがドラコに優しさを見せていたら、どこかでお互いに対する最悪な態度を解いていたら、クィディッチという共通の趣味で打ち解けることが出来たら、どこかで二人が共通の問題と闘っている事実を知ることができたら、J.K.ローリングに1ミリでもクィアな世界への理解があったら......

 ドラコはあのシリーズにおいて、全く違う性質のキャラクターに変化出来たのではないでしょうか。ドラコは「誠の友を得る」ことが出来たのではないでしょうか......?

 思い返せば、それが出来たタイミングはいくらでもあったはずです。一巻の禁じられた森のシーンとか、六巻のトイレのシーンとか、七巻のマルフォイ邸のシーンとか......たとえ「パートナー」とまでは行かなくとも、何かが違っていたらドラコの物語は早い段階で、腑に落ちる形で完結させることが出来たのかもしれないじゃないですか。

 また、“ハリポタ”に脱線してしまいましたね......(笑)。

 

 ルースとアミティの二人のドラマは、『ハリポタ』の中では実現しなかったそんな光景の、その先まで見せてくれます。いわゆる、女体をふたつ並ばせただけみたいな「安易な百合」的な消費のされ方を決して許さない、丁寧に組み立てられた、トキシックさのない関係です。二人が打ち解けていくキッカケになるのが共通のファンタジー小説である点も、作り手が創作物の持つパワー、ファンガール・カルチャーの持つ力を全面的に信頼しているようでもありますし、フィクションの世界を愛する人間からすると、胸の奥が熱くなるものがあります。持つべきは共通の趣味を持つ友ですね。

 何より、悩みながらもどんどん成長し、学び、自立し、自らの道を切り開いていくアミティというキャラクター自体が、この上なく魅力的なのです。ルースとの関係を深めるごとに、アミティの表情がどんどん柔らかくなって生き生きとしてく様子は、見ているだけで心が洗われるような気分になります。第1話でイマイチ合わなかった人も、とりあえず第16話のプロム回までは見て欲しいです。最高だから。マジで。

 

 

終わりに

 

 三人のキャラクターに一万字を超える文量になるとは思いませんでしたが、この三人以外のキャラクターたちも同じぐらい語りがいのある人物ばかりですし、キャラクターの描かれ方以外でも、語り尽くせないほどの魅力が詰まったアニメ・シリーズです。『東京喰種』や『ドラゴンボール』を彷彿とさせるアクションシーンとか、J.K.ローリングを最も強く批判するようなトランス的なキャラクターとか、各LGBTQ +フラッグの色と同じ配色になった画面のカラー・パレットとか......。

 ルースという強固な主人公こそ中心に据えているものの、サブキャラクターたちにもそれぞれしっかりとストーリーが用意されています。このシリーズはとにかくキャラクターたちの交通整理が巧みなのも特徴です。キャラクターたちの関係の変化に素早く反応して、観客が「そういえば、アイツはどうなった?」なんて疑問を持つよりも早く、適切なタイミングで絶妙な人物同士を絡ませます。特にシーズン2は、「コイツと......コイツかよ!?」ってなるような、意外なキャラクター同士の組み合わせがいくつか登場するんですが、どれもめちゃくちゃ納得がいくし、良い化学反応を起こしています。作り手がキャラクターの一人一人を本当に大切にしていることが、ひしひしと伝わってきますね。

 

 ディズニープラスのローンチ及び日本でのサービス拡大によって、これまでは高額なケーブル・テレビや円盤ソフトの輸入などでしか視聴手段のなかった海外のカートゥーンへのアクセスが、格段に容易になりました。

 冒頭にも書きましたが、『アウルハウス』はかつて“ハリポタ”に熱狂していた20~30代、そしてその子供の世代にこそ最も見てほしい作品です。しかし疑問に残るのが、コンテンツに溢れる現代を生きる子供たち、あるいはその親がディズニープラスに加入していたとして、『アウルハウス』の再生ボタンにまで辿り着くまでって、どれぐらいのハードルがあるんでしょうか?作品へのアクセス自体は確保された分、『アウルハウス』のような作品って、サブスクのUIに並ぶ数多の他の作品の中に埋もれてしまっているような気がするんですよね。

 それに最近のディズニーは、ライセンス料の元が取れるほどの人気のない作品ならば、たとえ最新のオリジナル作だろうと、ディズニープラスでの配信を終了しています。『アウルハウス』ほどよく出来た作品が子供に届くことなく日本で見られなくなる、なんて最悪な事態は絶対に回避してほしいのですが、そのためには僕のようなファンが精力的に紹介していくしか、ないんでしょうかね......?

 

 

  『マトリックス』シリーズのウォシャウスキー姉妹によるドラマ『Sence8』にこんな台詞があります。

 

「アートは弁証法だ。分かち合えば豊かになり…」

「所有や商品化によって貧しくなる」

─引用:『Since8 センス8』Netflix

 

 『アウルハウス』も商品であることに変わりはありませんが、このアニメは映画産業と市場によって巨大IPとして過度に“商品化され、原作者の手によってですら本来の“豊かさ”を損なってしまった“ハリポタ”という”物語“に対して、子供向けに優しく展開された弁証法であるといえます。「人類の歴史は人権の歴史」とも言いますが、映画やアニメに限らず、あらゆる物語は時代の流れと価値観の変化に伴って、いつかは古びていくものです。『アウルハウス』だって、いつかは古い時代のものになることを願うばかりですが、こうして新しい世代のクリエイターが物語の語り手としてのバトンを受け継いで、次の世代に向けて、前の世代が見落としていたものをしっかりと包括して“語り直す”ことこそが、人類の進歩そのものであると思うのです。“物語”、言い換えれば“テーゼ”や”ナラティヴ”と呼ばれるようなものは人類が発明した物の中で最も力を持つものであり、人類が築いた文明世界の大部分を構成しているからです。

 

 

 『ハリー・ポッター』のハリーの冒険はフクロウが“来る”ことで始まり、息子を学びの場に“送り出す”ことで終わりますが、『アウルハウス』のルースの冒険はフクロウを“追う”ことで始まり、自らが新たな学びの場に“送り出される”ことで終わります。

 極東の島国の小学生だった私のところにフクロウは来ませんでしたが、フクロウなど待たずとも、自らが進んで学んで行動していくことでボイリング島のような楽園を作ることが出来るのなら、次の時代を明るいものに出来るのなら、それだけ素晴らしいことはないでしょう。

 

ありがとう『アウルハウス』!私の中で止まっていた、魔法の世界の続きを見せてくれて。

 

 ↓ディズニープラス『アウルハウス』視聴ページ↓

https://www.disneyplus.com/ja-jp/series/the-owl-house/4cOTrEy0YyaX